古文書の書風・書体と執筆姿勢

中世の古文書の多くはくずし字で書かれていますが、注意深く見ると、比較的きちんと書かれているものやひどくくずされたものなど、ひとくちに「くずし字」といっても様々な書風・書体が見受けられます。また、同一人物であっても、時と場合によって全く異なる書風・書体の筆跡を残している場合があります。今回は、そうした書風・書体の問題について考えてみましょう。

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新見荘直務代官 祐清の悲劇と「たまかき書状」

備中国新見荘から届いた百姓たちのメッセージ~百姓を苦しめる代官を追放する~」では、約40年間にわたって圧政を敷いた代官を追放し、領主である東寺の直接支配を実現させた新見荘の百姓たちのお話をご紹介しました。今回は、新見荘を直接支配するために東寺から派遣された代官の祐清(ゆうせい)についてお話します。

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宝蔵と御影堂経蔵

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (5),「京都新聞」2016年3月26日付28面記事を転載

東寺の二つの顔は、「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」と「弘法さん」という二つの信仰形態、そして伽藍(がらん)と御影堂(みえどう)という堂舎のあり方の違いにとどまりません。寺宝の収蔵状況にもみられます。 

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年末に行われた後七日御修法(ごしちにちみしほ)

後七日御修法とは、毎年正月8日から14日まで、宮中にある「真言院」で実施された仏事のことです。東寺にとって最も重要な国家行事のひとつで、東寺長者が中心となり、玉体安穏や五穀豊穣などを祈りました。現在は、東寺にある「灌頂院(かんじょういん)」で行われています。

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160年の沈黙… 後七日御修法(ごしちにちみしほ)

今年も例年通り、東寺にある「灌頂院(かんじょういん)」で「後七日御修法」が行われました。「後七日」とは正月8日から14日までの7日間のことで、元日から正月7日までの7日間を指す「前七日」と対になる言葉です。平安時代から宮中では、前七日に神事を、後七日に仏事を執り行うことになっていました。後七日に行うので、この仏事は後七日御修法と呼ばれています。後七日御修法は、東寺にとって最も重要な国家行事のひとつでした。

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真言宗最高の儀式「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」

今年も1月8日から14日まで、東寺の灌頂院(かんじょういん)では「後七日御修法」が執り行われます。今回は、後七日御修法について紹介したいと思います。後七日御修法は、東寺の重要な年中行事の一つで、弘法大師空海が承和2(835)年に平安京宮中の真言院で勤めたことに始まります。東寺長者が導師を勤めて玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る修法で、ほぼ毎年、宮中真言院で営まれてきました。

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こんなに荒れていた!?中世の神泉苑

二条城の南側に、境内に大きな池のあるお寺があることをご存知でしょうか?このお寺は「神泉苑」といい、御池通りは神泉苑の池の傍を通るため、この名前になったという説があります。また、源義経の一代記である『義経記』では、源義経と静御前が出会った場所とされています。

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「伽藍」と「御影堂」

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (4),「京都新聞」2016年2月27日付24面記事を転載

前回は、東寺(教王護国寺、京都市南区)の「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」と「弘法さん」がテーマでしたが、引き続き東寺の「二つの顔」についてみておきましょう。それは「後七日御修法」と「弘法さん」という二つの信仰形態にとどまるものではありません。その信仰形態の違いは、東寺全体の堂舎のあり方にも反映されています。

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「後七日御修法」と「弘法さん」

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (3),「京都新聞」2016年1月23日付22面記事を転載

新年早々の8日から14日まで、東寺(教王護国寺、京都市南区)では「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が厳修されました。また、21日は「初弘法」で東寺の境内はもちろん、周辺も参拝の善男善女で大いににぎわいました。

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備中国新見荘から届いた百姓たちのメッセージ~百姓を苦しめる代官を追放する~

強面の代官が圧政で民衆や百姓を苦しめる―これは主に、江戸時代を舞台にした時代劇でよく見かける定番のシチュエーションですね。テレビでこうした場面を見るたび、苦しむ百姓たちの姿に心が痛みますが、歴史を振り返ってみると、必ずしも百姓たちは苦しめられるばかりではありませんでした。時代は遡りますが、今回は東寺領である備中国新見荘(現在の岡山県新見市)の百姓たちが、自分たちを苦しめる代官を追放したというお話を紹介します。

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松雲公の偉大な功績

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (2),「京都新聞」2015年12月12日付28面記事を転載

東寺百合文書は、名が象徴するように我が国の古文書のうちでも特別な文書であります。文書の質や内容が特に優れていることは言うに及ばず、古くは奈良時代から江戸時代にいたる千年以上にわたる2万点3万通という大量の文書は、まさに壮観というべきでありましょう。これらの文書が現在に伝えられた最大の功績は、松雲公(加賀藩主前田綱紀)による「百合」の寄進というべきだと思います。

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右筆(ゆうひつ)が書いた文書

足利将軍自筆の文書」では、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあきら)と4代将軍・義持が書いた文書をご紹介しました。本来、将軍自ら筆をとることはまれで、文書や記録を書くのは書記官である右筆の仕事でした。今回はその右筆が書いた文書をご紹介します。

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水を求めて in 桂川 その3

水を求めて in 桂川のその1その2では、「山城国桂川用水差図案」(ツ函341号)から桂川用水をめぐる相論についてお話ししました。このような絵図を作成するためには、どのように描くかを決め、紙を用意するなど色々な準備が必要です。そのような準備の様子についても百合文書から知ることが出来ます。

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水を求めて in 桂川 その2

前回は、ツ函341号「山城国桂川用水差図案」がつくられた背景についてお話しました。今回はその続きです。明応5(1496)年に行われた裁判の結果、今後は用水を半分ずつに分けるようにと幕府から命じられましたが(を函333号 )、この内容は西八条西荘側にとって、納得のいかない結果でした。

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水を求めて in 桂川 その1

桂川の周辺にあった荘園と、その荘園の田を耕作するための水をひく水路が描かれた絵図で、明応5(1496)年に作成されたものと思われます。図の真ん中に蛇行した太線が縦に描かれていますが、これが桂川です。荘園に関する書籍などで多く利用されているので、この図を見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。この図は、いったい何のために描かれた図なのでしょうか?

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「むまくら」それとも「むまくわ」?-ハ函239号の読み方について

ある府県のある資料館にて……

弟:いろんなものがたくさんあるね。
兄:なんか古そうだな。こんなの見ても学校の勉強にならないよ。
父:そう言わずに。せっかく来たんだから。
弟:これって農家の人が使う道具だね。テレビで見たことあるよ。
兄:昔のものだよ。「鍬(くわ)」って説明書きがあるだろう。
父:鍬は弥生時代から使われている道具だよ。今でも形も変わらずに使われているんだ。すごいな。
弟:これはどう使うの。「鋤(すき)」って書いてあるけど。
兄:「くわ」も「すき」も一緒だよ。「耕す道具」って書いてあるじゃない。
父:おいおい、よく見ろよ。柄と刃との角度が違うだろう。ということは、使い方も違うってことだ。
隣りの客:鍬や鋤なんか置いておかないで、綺麗なものを並べればいいのに…。

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