備中国新見荘から届いた百姓たちのメッセージ~百姓を苦しめる代官を追放する~

強面の代官が圧政で民衆や百姓を苦しめる―これは主に、江戸時代を舞台にした時代劇でよく見かける定番のシチュエーションですね。テレビでこうした場面を見るたび、苦しむ百姓たちの姿に心が痛みますが、歴史を振り返ってみると、必ずしも百姓たちは苦しめられるばかりではありませんでした。時代は遡りますが、今回は東寺領である備中国新見荘(現在の岡山県新見市)の百姓たちが、自分たちを苦しめる代官を追放したというお話を紹介します。

え函104号「備中国新見荘百姓等申状」7月26日

中世の百姓たちは、荘園領主に対して様々な要求をする際に、上申書を提出することがありました。これを「百姓申状(ひゃくしょうもうしじょう)」といいます。
寛正2(1461)年8月3日、新見荘から百姓申状(え函104号「備中国新見荘百姓等申状」)を携えた使者が東寺にやってきました。

文書の差出人は新見荘の百姓たちで、「東寺から新見荘の代官を請け負ってきた安富(やすとみ)氏一派を備中国から追放したので、新見荘を直接支配・管理する東寺の人間を代官として派遣してください」という内容でした。つまり、百姓たちは使者を通じて現地で代官を請け負っていた安富氏の支配を拒絶し、東寺による新見荘の直接支配・管理を要求してきたのです。

新見荘の百姓たちから申状が出された経緯を見ていきましょう。

新見荘は、正中2(1325)年正月から東寺領となっていましたが、荘園内で地頭や土豪が力を振るい、対立などの混乱が頻発していたため、武力を持たない東寺が新見荘を直接支配することはできませんでした。

こうした状況で東寺に代わって新見荘を支配したのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏でした。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るというものでした。

一見すると、とても合理的な支配方法に映りますが、一方では深刻な問題も抱えていました。

実は、安富氏は百姓たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続け、百姓たちに過剰な負担を強いたほか、東寺との契約にも背いて嘉吉元(1441)年~寛正元(1460)年までの約20年間にわたって、2,200貫文余りの年貢を納めませんでした。

この百姓申状が出された寛正2年当時は、長禄3(1459)年から続く飢饉の影響もあったため、新見荘の百姓たちの我慢もついに限界に達したのでしょう。新見荘の百姓たちは蜂起して、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者にメッセージを託したのです。

さて、新見荘からの一報を受けた東寺の供僧たちは、同日直ちに会議を開き、申状を運んできた使者を呼び出して現地の情勢などについて事情聴取をしています。その内容を、次に挙げる「最勝光院方評定引付」寛正2年8月3日条から見ていきましょう。

け函12号 最勝光院方評定引付
け函12号「最勝光院方評定引付」寛正2(1461)年8月3日条

使者は会議の場で次のように話しています。

  • 安富方の勢力はすでに新見荘から退出している。
  • 百姓たちは起請文(きしょうもん)を書き、「一味神水(いちみしんすい)」(一揆に参加する人々が神社の境内で神水を酌み交わして一致団結すること)して安富氏を永久に受け入れないと固く神仏に誓っている。
  • 新見荘を直接支配・管理する代官を急いで東寺から派遣してほしい。

話を聞いた供僧たちは、百姓たちが作成した起請文を東寺へ送るよう使者に命じ、新見荘に帰らせます。東寺の命令は新見荘の百姓たちによってすぐに実行され、8月22日には、「三職(さんしき、さんしょく)注進状」(え函116号「備中国新見荘三職連署注進状」8月16日)と41名の名主が連署した「備中国新見荘名主百姓等申状并連署起請文」(え函23号)が東寺へ届けられています。

え函23号「備中国新見荘名主百姓等申状并連署起請文」寛正2(1461)年8月22日

起請文には、千万に一つ、安富氏が新見荘の代官職に復帰したとしても新見荘の百姓たちは決して受け入れないことと、東寺から来る代官を敬って年貢や公事を間違いなく納入することを誓っています。文面からは、百姓たちの結束の強さが伝わってきますね。

百姓たちの意志と結束の強さを確認した東寺の供僧たちは、安富氏の代官解任と東寺の直接支配の実現を求めて室町幕府へはたらきかけました(サ函82号「東寺雑掌申状案」寛正2年8月日)。その結果、幕府によって認められることになりました(ホ函52号「室町幕府奉行人連署奉書」寛正2年9月2日の函42号「室町幕府奉行人連署奉書」寛正2年9月2日)。

このように、東寺による直接支配を強く望んだ百姓たちの堅い結束が原動力となって、約40年間にわたって続いた安富氏による請負代官支配は終わりを迎えました。新見荘の百姓たちからメッセージを託された使者が東寺に到着してから、わずか一ヶ月後のことでした。このあと、新見荘を直接支配する僧侶が東寺から派遣されますが、これはまた別の機会にお話いたします。

(山本 琢:歴史資料課)