新見荘直務代官 祐清の悲劇と「たまかき書状」

備中国新見荘から届いた百姓たちのメッセージ~百姓を苦しめる代官を追放する~」では、約40年間にわたって圧政を敷いた代官を追放し、領主である東寺の直接支配を実現させた新見荘の百姓たちのお話をご紹介しました。今回は、新見荘を直接支配するために東寺から派遣された代官の祐清(ゆうせい)についてお話します。

JR新見駅前にある「祐清像」

東寺が新見荘を直接支配するにあたり、誰かを代官として現地に派遣しなくてはなりません。そこで東寺では代官の人選が行われ、西院御影堂で堂の番役や文書の管理に携わる三聖人の一人であった祐清という僧侶が派遣されることになりました。
祐清は寛正3(1462)年7月25日に京都を出発し、8月5日に新見荘へ到着、現地の百姓たちと面会しています。

東寺による直接支配が実現したことで、新見荘の百姓たちは祐清に大きな期待を掛けていたことでしょう。というのも、長禄3(1459)年から寛正2(1461)年にかけて全国的に大飢饉が襲い、祐清が下向した寛正3年8月、9月には新見荘で霜が降りるなどの異常気象が続き、田畠は大きな被害を受けていました。百姓たちは、祐清が被害を調査して、実状に応じて年貢の額を減らしてくれると信じていました。

ところが祐清は百姓たちの期待とは裏腹に、年貢を納めない者は「名を召し放つ」(田畑を耕作する権利を取り上げる)と、百姓たちに厳しい態度で臨んできました。祐清は百姓たちの窮状よりも、できるだけ多くの年貢を収納して代官としての実績を挙げようと意気込んでいたのでしょう。祐清にとって東寺の上層部が決めた寺命は絶対ですし、おそらく真面目で融通の利かない若い僧侶だったのではないでしょうか。

祐清は、「たとえ一命を失っても、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」(ト函116号「備中国新見荘代官祐清注進状」寛正3(1462)年8月25日)という強い決意をもって代官の職務に臨み、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡を追放するなど、半ば強引な方法で年貢を徴収しました。その結果、荘内の百姓たちは祐清に対して不満を抱くようになり、やがてその不満が刃傷沙汰を引き起こします。

祐清が新見荘に赴任してから約1年後の寛正4(1463)年8月25日、祐清は馬に乗って中間2人を連れて荘内の年貢徴収に出かけていました。祐清が地頭方の相国寺善仏寺領を通りかかったところ、家を建築していた谷内という者から下馬しないのは無礼だと咎められます。すぐに祐清は馬から降りて非礼を詫びましたが、大勢が刀を抜いて追いかけてきたため、祐清も刀を抜いて応戦しました。

そこに、後から追いかけてきた谷内と横見という者が、一旦その場を収めました。祐清も「こちらも下馬したのだから、ともかくも…」と言って、構えていた刀を鞘に戻しました。すると次の瞬間、谷内と横見が祐清に斬りかかり、あえなく祐清は落命しました。谷内と横見は、祐清が乗っていた馬や太刀、具足、衣装までも剥ぎ取ったそうです。ちなみに、祐清を殺害した2人は、先に追放された名主・豊岡の親戚の者から頼まれて祐清を討ったということです。

祐清が殺害された現場の様子についても、東寺百合文書から知ることができます。

サ函399号 備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図
サ函399号「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」
谷内家見取り図

「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」は、祐清が「下馬とがめ」された際に通りかかった谷内家の見取り図で、図の裏には「八月二十五日、よ(寄)する時家也」とあることから、8月25日に起こった祐清の殺害事件の現場を描いたものです。向かって右側には谷内家の主殿が描かれ、左側には周囲を堀で囲まれた谷内家の客殿(地頭方政所)があり、主殿と客殿が小門と小橋でつながっていたことがわかります。また、東側の「路」「路」と書かれた線の下にある、塀で囲まれた区画の下には「是まてハ下馬、自是馬ニ被上」とあるように、祐清が下馬していた区間と、乗馬した地点が示されています。

殺されてしまった祐清ですが、そんな彼に好意を寄せていた女性がいました。
その名は「たまかき」。

JR新見駅前にある「たまかき像」

「たまかき」は三職の一人である福本の姉妹で、代官としてやって来た祐清の身辺の世話をしていたと考えられる女性です。殺害された祐清の弔いを済ませた「たまかき」は、その遺品を整理した後、祐清の遺品の形見分けを所望する手紙を東寺へ送っています。

ゆ函84号「たまかき書状并備中国新見荘代官祐清遺品注文」

この手紙は、中世の地方に住む女性が書いた手紙として稀有な資料です。彼女は手紙の中で、祐清が生前に所持していた品を目録として書き上げ、葬儀などの諸費用に充てたことを報告し、残った白小袖・紬の表(紬糸で織られた絹織物)・布子(綿入れ)の3品を、祐清の形見として貰い受けたいと願っています。

祐清が新見荘にやって来てから、たった1年間。2人がどのように通じ合っていたのか、そして「たまかき」の形見分けの希望が叶ったのかどうかは不明ですが、唯一残る手紙の「御いたわしさは、申しようもありません」という言葉から、亡き人を偲ぶ女性の想いが伝わってきませんか。

「たまかき書状并備中国新見荘代官祐清遺品注文」は現在、京都文化博物館で開催中の「東寺百合文書展―人・物・情報が行き交う中世―」の後期展示(~4月23日)で公開されています。この機会に、ぜひご覧ください。

(山本 琢:資料課)