「足利将軍自筆の文書」では、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあきら)と4代将軍・義持が書いた文書をご紹介しました。本来、将軍自ら筆をとることはまれで、文書や記録を書くのは書記官である右筆の仕事でした。今回はその右筆が書いた文書をご紹介します。
観応元(1350)年7月28日に義詮と高師直(こうのもろなお)は、土岐周済(ときしゅうせい)を討伐するために京都を出発しました。幕府の人事に不満を抱いていた周済が、美濃国(現在の岐阜県南部)で挙兵したからです。出発にあたり義詮の父・尊氏は、全国各地の寺院や神社に戦勝祈願の祈祷を命じました。
上は東寺に、下は実相寺(東寺の子院=東寺に付属する小さな寺院)に出された文書です。この2通の文書は、尊氏本人ではなく、右筆の安富行長(やすとみゆきなが)が書いたと考えられています。なぜ安富行長が書いたとわかるのでしょうか?墨色と筆跡を根拠に探ってみましょう。
まず、墨色をじっくり見つめてください。2通とも、本文に比べて花押(かおう、サインのこと)の墨色が若干薄いように感じませんか?これは青墨(せいぼく)という特別な墨で書かれているからです。青墨は将軍が自ら筆をとるときによく使われました。冒頭で文書を書くのは右筆の仕事と説明しましたが、花押は例外で、差出人本人が書くのが一般的でした。よって、この文書の花押は尊氏が、本文は右筆が書いたと考えられています。
続いて、筆跡を見比べてみましょう。なんだかよく似ていませんか?
実は、祇園祭でおなじみの八坂神社にもこの祈祷命令の文書が残っています。筆跡は上の2通の文書とよく似ています。さらに上の2通とは違い、八坂神社文書の右上の余白部分には「将軍御教書 奉行安富右近大夫 為濃州凶徒対治鎌倉殿御発向御祈事」という文字が書かれています。
「将軍御教書」は、観応元(1350)年に将軍であった尊氏からいただいた文書であること。「為濃州凶徒対治鎌倉殿御発向御祈事」は、美濃国で挙兵した土岐周済を討伐するために京都を出発した鎌倉殿・義詮に向けた戦勝祈願の祈祷であること。そして「奉行安富右近大夫」は、この祈祷を実行に移すために右近大夫(うこんたいふ)であった安富行長が文書を書くなどの具体的な実務を担当したことを表しています。
以上のことから、八坂神社に出された祈祷命令の文書は安富行長が書いたものであり、筆跡の似ている東寺百合文書の2通も、同様に安富行長が書いたものと推定できるのです。
今回ご紹介した文書以外にも、東寺百合文書の中にはいくつか安富行長が書いた文書が残っています。ぜひ探してみてください。東寺百合文書WEBで“安富行長”や“御判御教書”をキーワードに入力すると、見つけることができます。
(鍜治:歴史資料課)