水を求めて in 桂川のその1・その2では、「山城国桂川用水差図案」(ツ函341号)から桂川用水をめぐる相論についてお話ししました。このような絵図を作成するためには、どのように描くかを決め、紙を用意するなど色々な準備が必要です。そのような準備の様子についても百合文書から知ることが出来ます。
紙を準備
明応5(1496)年閏2月19・20日の2日にわたり、東寺の供僧が河原を実地見聞し、「会師(絵師)」を同行させて、図を描かせたときの経費をまとめたものです。料紙にした「引合(しわ模様のない和紙)」や「中紙」などが合わせて113文と書いてあります。その1で紹介した「山城国西岡下五ヵ郷用水差図案」(ヲ函121号)の下絵やそれにもとづく差図を作ったと考えられています。
絵を描くための打ち合わせ
こちらは「敵方指図」について、五ヵ郷と東寺が相談しているのですが、この「敵方指図」は「山城国桂川用水差図案」(ツ函341号)を指しています。振る舞われた酒肴の費用は合わせて426文、その前に訴訟の担当者である雑掌が幕府奉行人のもとへ出かけた経費が70文でした。また酒肴の費用には、酒・アコや・カウノ物などの食べ物の他に、三ト入(お酒を入れる杯)・ハシ(箸)といった食器も費用に含まれていたことがわかります。
この他にも、打ち合わせの内容が記されている文書は何点かあります。当時の人たちが、どのような事を話し合い、その場で何を食べていたのか、意外な発見があるかもしれませんね。
さて、今回の相論では、西岡五ヵ郷(牛瀬・築山・上久世・下久世・大藪)と西八条西荘と石原荘が出てきましたが、これらの荘園の位置関係は現在ではどの町にあたるのでしょうか?一覧にしてみると、このような結果となりました!
上記の場所に各荘園があったと思われます。これを現在の地図に照らし合わせてみると…
この様な配置となりました!桂川に沿うように荘園があったことがわかりますね。いくつか地名などで荘園名が残っている場所もありますね。
「山城国桂川用水差図案」(ツ函341号)と重ねてみると、大きくズレてしまう箇所もありますが、荘園同士の位置関係はおおよそ同じでしょうか。
また江戸時代中期に描かれた「山城国水系図」(当館所蔵)にも、桂川周辺にあった荘園の名をみることができます。
現在の図と重ねてみると、こちらの図の方が現在と同じ位置に荘園の名前が描かれていますね。
さて、絵図を比較してきましたが、描かれていた場所は今、どうなっているでしょうか?
「山城国桂川用水差図案」の上部に描かれている西庄井は、桂大橋周辺で地図の★の位置に当たります。現在の桂大橋は、図で描かれている桂橋より南に位置していますが、橋の親柱にはかつらばしと書いてあります。
吉祥院井があったとされる場所は、桂川と天神川の合流地点で地図の★の位置に当たります。対岸が牛瀬郷です。
また久世橋の上(★の位置)から牛瀬・上久世側(西側)を見ると、このような光景でした。住宅が密集しています。
現地を歩いてみて、当時の面影は残っていませんでしたが、実際の荘園がどれくらいの広さだったか実感できました。文字を読むだけではわからないことも現地に行けばわかることもあります。皆様も荘園めぐりをしてみてはいかがでしょうか?
(伊藤実矩:歴史資料課)