桂川の周辺にあった荘園と、その荘園の田を耕作するための水をひく水路が描かれた絵図で、明応5(1496)年に作成されたものと思われます。図の真ん中に蛇行した太線が縦に描かれていますが、これが桂川です。荘園に関する書籍などで多く利用されているので、この図を見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。この図は、いったい何のために描かれた図なのでしょうか?
当時の桂川周辺の状況をみていきましょう。以前から桂川の水の利用をめぐって、川の西側の西岡五ヵ郷(上久世・下久世・大藪・牛瀬・築山)と東側の石清水八幡宮領西八条西荘との間で争いがあり、相論がつづいていました。
発端は文明10(1478)年、東寺領の上・下久世荘とその対岸にある石原荘が、元々十一ヵ郷(上久世・寺戸・河嶋・下津林・下桂・徳大寺・牛瀬・大藪・下久世・築山)のための用水があるにもかかわらず、西八条西荘の取入口より上流に新しい取入口を開いたことにあります。
もし上・下久世荘などが新しい取入口から先に水をとってしまうと、西八条西荘には十分な量の水が回って来なくなるかもしれません。そこで、西八条西荘は幕府に訴えて、上・下久世荘たちがつくった新しい取入口の使用を禁止してもらいます。しかし上・下久世荘はその後も、文明11(1479)年には新取水口を再興したり、明応3(1494)年には新取水口から水を引いたりと水の利用をあきらめませんでした。その度に、西八条西荘は幕府に訴えて、取水を禁止してもらいました(下のト函135号)。
その問題となっている新取水口がこの場所です。
上・下久世荘を含む五ヵ郷側も、明応4(1495)年、取水口の正当性を主張するため、幕府に訴状を提出しました。その後、問答など訴訟の手続きがすすめられ、その中で幕府は明応5(1496)年閏2月、両者に絵図(差図)の作成と提出を命じました。
そこで提出されたのが、これらの図です。
上のほうは五ヵ郷側が作成した提出したもの(の控)、下のほうは西八条西荘側が作成し提出したもの(の控)です。「山城国桂川用水差図案」は、明応5年に西八条西荘が問答のための資料として幕府に提出したものでした。有名でよく利用されてきたツ函341号と違ってヲ函121号は、これまで1件しか掲載利用されていません。この差は、いったい何なのでしょうか…。
ツ函341号の裏書きには「西庄より出帯差」とあり、西八条西荘から提出されたものだと書かれています。それぞれの井には、堰(せき)が対になっており、どの場所で水を堰き止め、荘内へ取水していたかわかるように描かれています。先ほどの図で、赤い○を付けたところには「去々年堀新溝」と書かれていますが、これは五ヵ郷側が新しく堀った溝で、元々あったのは対岸の西八条西荘の溝であることを主張しています。
さて、双方絵図を出した後、幕府の法廷で対決がおこなわれます。東寺の僧が法廷の様子を記録しており、五ヵ郷の代表者や東寺の荘官、石清水八幡宮の荘官、幕府の奉行人などが裁判の行方を見守っていました(ね函34号)。その結果、今後は用水を半分ずつ折中し、耕作に専念するようにと幕府から命じられました。五ヵ郷側の新溝が幕府に認められたかたちの決着です(を函333号)。しかし西八条西荘はこの決着に不満を持ち、五ヵ郷との争いはこの後も続きます。
果たして、どのような結果となるのでしょうか。続きは次回!
(伊藤:歴史資料課)