前回は、ツ函341号「山城国桂川用水差図案」がつくられた背景についてお話しました。今回はその続きです。明応5(1496)年に行われた裁判の結果、今後は用水を半分ずつに分けるようにと幕府から命じられましたが(を函333号 )、この内容は西八条西荘側にとって、納得のいかない結果でした。
そのため、西八条西荘と西岡五ヶ郷との争いはなお続いてしまいました。その後の両荘の動向を列挙してみると…
- 明応6(1497)年 西八条西荘が紛争を再発させ、半分ずつに分けるはずの用水を全部西八条西荘へ引いてしまう。
- 五ヵ郷側は黙っていられず、幕府に訴える(教王護国寺文書2144)。
- 幕府は、五ヵ郷側の訴えを認め、再び半分にわけることを命じる(を函338号)。
- 西八条西側、不作を理由に幕府へ用水の利用を嘆願する。
- 幕府、西八条西側の用水全部の利用を認める(を函371号)。
- 五ヵ郷側、再び半分に分けることを訴える(ひ函144号)。
- 石原荘の土豪石原雅楽助の仲裁により、西八条西荘と五ヵ郷は半分に分けることで合意する(ヲ函128号)。
文明10(1478)年から文亀3(1503)年までの25年間続いた相論も、最終的には、用水を折半するという形に収まりました。稲作にとって、水の確保は死活問題です。不作だった両荘にとって、どれほど長い月日がかかっても水の確保は不可欠だったのではないでしょうか。
(伊藤実矩:歴史資料課)