今年も1月8日から14日まで、東寺の灌頂院(かんじょういん)では「後七日御修法」が執り行われます。今回は、後七日御修法について紹介したいと思います。後七日御修法は、東寺の重要な年中行事の一つで、弘法大師空海が承和2(835)年に平安京宮中の真言院で勤めたことに始まります。東寺長者が導師を勤めて玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る修法で、ほぼ毎年、宮中真言院で営まれてきました。
ほぼ全時代をつうじて勤修されている後七日御修法ですが、一時中断した時期もありました。文明2(1470)年の「廿一口供僧方評定引付」から、中断した要因をみていきましょう。
当時の東寺長者であった報恩院隆済が没したため後任探しがはじまりますが、「廿一口供僧方評定引付」(ち函19号)文明2年8月4日条には、報恩院が辞退したことに端を発して「皆以辞退被申候」とあり、次々と辞退者が出たことがうかがえます。そのため、「寺務之事未補」、つまり東寺長者が不在になったと記載されています。
辞退者が続出した背景には、応仁元(1467)年に発生した応仁の乱の影響が考えられます。東寺が西軍の支配下に置かれ、東軍に取り込まれた室町殿や院・禁裏とうまく接触できず、新たな東寺長者の調整をつけることができませんでした。そのため、東寺長者の引き受け手がなくなり、結果的には十数年ものあいだ欠員が生じる事態に発展しました。
東寺長者が不在となった結果、東寺長者が導師を勤める後七日御修法も途絶えてしまい、元和9(1623)年に再興されるまでの約150年にわたって断絶しています。
さて、東寺百合文書には「後七日御修法」に関わる資料として、「後七日御修法修僧交名」という後七日御修法に出仕した僧侶の名前と役割を記した文書があります。
東寺には同種の文書が約600年間にわたって369点残されており、最古のものが下の天仁3(1100)年のものです。
なお、後七日御修法は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)後の明治16(1883)年に、今の灌頂院で行われるようになりました。堂内西側に金剛界曼荼羅、東側に胎蔵曼荼羅を安置して、それを一年交代で本尊として修法します。後七日御修法は現在、真言宗の最高の儀式とされ、毎年勅使を迎えて、真言各派を代表する高僧14人が出仕し、正月8日から14日まで(7日間の修法を行うことから後七日という)の間、厳重に執り行われています。また、息災護摩壇・増益護摩壇・五大尊壇・十二天壇・聖天壇・神供・観音壇などを設け、それぞれの配役の高僧が同時に修法されており、密教最高の儀式として尊ばれる由縁となっています。
(山本琢:資料課)