160年の沈黙… 後七日御修法(ごしちにちみしほ)

今年も例年通り、東寺にある「灌頂院(かんじょういん)」で「後七日御修法」が行われました。「後七日」とは正月8日から14日までの7日間のことで、元日から正月7日までの7日間を指す「前七日」と対になる言葉です。平安時代から宮中では、前七日に神事を、後七日に仏事を執り行うことになっていました。後七日に行うので、この仏事は後七日御修法と呼ばれています。後七日御修法は、東寺にとって最も重要な国家行事のひとつでした。

ふ函8号-12 真言院後七日御修法請僧交名
ふ函8号-12「真言院後七日御修法請僧交名」元和9(1623)年

この後七日御修法は、元々宮中にある「真言院」が会場でした。承和2(835)年に空海の発案により始まったこの仏事は、玉体安穏や五穀豊穣などを祈ることが目的で、東寺長者が中心となって執り行われました。1,000年以上の歴史を持つ宮中行事でしたが、明治4(1871)年に廃仏毀釈の影響を受け、一旦廃止されます。その後、復活を望む声もあり、明治16(1883)年に再開されました。そのときに東寺内の「灌頂院」に会場が変更になり、以後、現在に至っています。

東寺には、この後七日御修法に参加した僧の名前および役割を示した「後七日御修法請僧交名(しょうそうきょうみょう)」という文書が約400点残っています。冒頭に上げた写真もその文書の1つです。後七日御修法は毎年行われたので、この「後七日御修法請僧交名」も毎年作成されました。さらに、文書が散逸してしまわないように、年度順に貼り継いで管理・保存されています。

試しに、冒頭に挙げた元和9(1623)年の「真言院後七日御修法請僧交名」の前後に貼り継がれた文書を確認してみましょう。確かに、後ろに貼り継がれた文書は翌年の元和10(1624)年のものです。一方で、前に貼り継がれた文書は元和8(1622)年のものではなく、それより遥か昔の長禄4(1460)年のものです。

「おや?」と、不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。元和9(1623)年の「真言院後七日御修法請僧交名」の裏側にその理由が語られています。

ふ函8号-12 真言院後七日御修法請僧交名
ふ函8号-12「真言院後七日御修法請僧交名」元和9(1623)年(裏)

承和二始之、従尒已降、至長禄四暦而相続、雖経六百二十余年之星霜、忽寛正二歳而闕退、徒送百六十三廻之年月、

承和2(835)年に始まった後七日御修法ですが、長禄4(1460)年までの約620年間、ほぼ毎年執り行われました。ところが、寛正2(1461)年から元和8(1622)年にかけては、162年連続で中止になっています。言い換えると、応仁の乱(1467~1477年)が始まる数年前から、江戸幕府が開かれて約20年の歳月が流れるまで、後七日御修法は1度も行われなかったのです。

元和9(1623)年に約160年の沈黙を破り、後七日御修法は再開されました。長きにわたり取りやめとなっていた後七日御修法ですが、実はすでに南北朝時代(1336~1392年)の時点で毎年予定通り実施することが難しくなっていたのです。次回は、南北朝時代の後七日御修法について紹介します。

(鍜治:資料課)