後七日御修法とは、毎年正月8日から14日まで、宮中にある「真言院」で実施された仏事のことです。東寺にとって最も重要な国家行事のひとつで、東寺長者が中心となり、玉体安穏や五穀豊穣などを祈りました。現在は、東寺にある「灌頂院(かんじょういん)」で行われています。
承和2(835)年の創始以来、1,000年以上の歴史を持つ後七日御修法ですが、「 160年の沈黙… 後七日御修法(ごしちにちみしほ)」で紹介した通り、寛正2(1461)年から元和8(1622)年までの162年間は一度も開催されませんでした。実は、すでに南北朝時代(1336~1392年)の時点で、毎年予定通り実施することが難しくなっていたのです。
上にあげた写真は、正平6(1351)年の後七日御修法に参加した僧の名前および役割を示した「後七日御修法請僧交名(しょうそうきょうみょう)」です。裏面の冒頭に「後七日法、十二月廿二日始行、去正月不遂行故也、」とあるように、正平6年の後七日御修法は年明けの正月8日ではなく、年の瀬の12月22日から開始されました。最終日がいつだったかは書かれていませんが、「東寺長者補任」などに書かれた内容から12月28日であったことがわかっています。
ちなみに、翌年の正平7(1352)年の後七日御修法は、予定通り正月8日~14日に行われました。ということは、正平6年の後七日御修法が終わり、翌正平7年の後七日御修法が始まるまで、わずか10日足らずしかなかったのです。
正平6年以外にも、南北朝時代には予定通り後七日御修法を行えない年が何度もありました。以下は、予定通り行われなかった年の開催月日および該当する後七日御修法請僧交名の文書番号をまとめた一覧表です。7日間ではなく、短縮して5日間もしくは6日間で切り上げている年もあります。
予定通り行われなかった年 | 開催した月日 | 文書番号 |
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正平6(1351)年 | 12/22~12/28 | ろ函3号-40 |
文和3(1354)年 | 1/10~1/14 (5日間) | ろ函3号-43 |
文和4(1355)年 | 6/24~6/30 | ろ函3号-44 |
延文元(1356)年 | 12/11~12/17 | ろ函3号-45 |
延文2(1357)年 | 12/8~12/14 | ろ函3号-46 |
延文3(1358)年 | 12/23~12/29 | ろ函号3-47 |
貞治元(1362)年 | 12/24~12/29 (6日間) | ろ函3号-51 |
貞治6(1367)年 | 1/14~1/20 | ふ函4号-5 |
応安2(1369)年 | 1/14~1/20 | ふ函4号-7 |
明徳3(1392)年 | 1/14~1/20 | ふ函4号-30 |
どうして南北朝時代になると、後七日御修法を毎年予定通り実施することが難しくなるのでしょうか。原因はいくつか考えられますが、そのひとつに「戦乱」をあげることができます。
南北朝時代に、朝廷は京都の北朝と吉野(奈良県南部)の南朝に分かれ、争いました。一方で、室町幕府も次第に足利尊氏派とその弟・直義派に二分化し、対立します。尊氏派は北朝と結びつき、南朝、直義派との間に三つどもえの戦いを繰り広げました。その結果、社会は不安定になり、加えて戦費の拡大により儀式を行うために必要な予算を十分に確保できなくなってしまったのです。
離反していた直義派の武将が尊氏派のもとに帰参し、さらに明徳3(1392)年に北朝と南朝が合体してひとつになることで、内乱は鎮まり、南北朝時代は終わりを告げました。室町時代に入ると、しばらくの間は後七日御修法は通常通り開催されていましたが、寛正2(1461)年以降は162年連続で中止に追い込まれました。この162年の間に、応仁の乱(1467~1477年)が起こり、戦国時代に突入していきます。奇しくも、162年連続の中止の背景には、同様に「戦乱」という問題を抱えていたのです。
(鍜治:資料課)