二条城の南側に、境内に大きな池のあるお寺があることをご存知でしょうか?このお寺は「神泉苑」といい、御池通りは神泉苑の池の傍を通るため、この名前になったという説があります。また、源義経の一代記である『義経記』では、源義経と静御前が出会った場所とされています。
神泉苑は、延暦13(794)年頃に平安京大内裏に接してに建てられた天皇の禁苑(天皇のための庭園)で、平安時代初期には、天皇の離宮や後院(天皇の隠居後の住まい)などに利用され、詩宴や観花などさまざまな宴が催されていました。
苑内には大きな池があり、池の北側には乾臨閣(けんりんかく)と呼ばれる建物が建っていました。池の真ん中には中島(池の中に造られる人工の島)があり、池の南側には南山とよばれる築山(庭園などに築かれる人工の山)がありました。当時の神泉苑の規模(青枠)を現在の規模(オレンジ枠)と比べると広大な敷地であったことがわかります。
しかし平安時代末期から荒れてしまい、鎌倉時代には後鳥羽上皇により一時復興されたものの、承久3(1221)年に起きた承久の乱以降再び荒廃してしまいました。荒れてしまった神泉苑の様子がわかる絵図が、東寺百合文書の中に残されています。
「神泉苑差図」を見てみると、康正3(1457)年の時点では神泉苑の中に森や田んぼがあることがわかります。平安時代の図と比べてみると、平安時代に中島があった場所は森に、そして南山があった場所は田んぼになっています。また、東寺百合文書の中にはこのように苑内の様子が大きく変わってしまった神泉苑について書かれている文書もあります。
神泉苑の様子を「神泉苑で、田畑を耕し、不浄が混在しているため「龍王」が他に移ってしまった状態である」と表現しています。天長元(824)年に空海が神泉苑で雨乞いの祈禱をしたという言い伝えから「祈雨の霊池」と称され、その後東寺長者が雨乞いの祈禱をしていました。また、祈雨の神様とされる龍王が住んでいるという伝承も残っています。龍王は穢れのない場所に住んでいると言われているので神泉苑から龍王が移ってしまったという内容から、神泉苑が穢れた状態、つまり荒れ果ててしまっていることがわかります。
ほかにも神泉苑の荒れ果てた様子を詳しく記している文書があります。
史料を読んでみると、神泉苑はもともと内裏の霊場として位置づけられており、周囲を大垣(築地)で囲まれていました。ここで挙げられている神泉苑の様子は、
- 四方を囲っていた築地は、東側しか残っていない(南北西は破壊されている)。→東側の築地は、修理されず長年そのままになっている。
- 苑内に通路が通っている。
- 近所に住んでいる人が不浄物を不法投棄している。
といったとおり、人が自由勝手に出入りし、ゴミなどが散乱しているなど無法地帯となっていることがわかります。
その後、応永年間(1394~1428)以来田畑になっていましたが、東寺が雨乞いの祈禱をする霊所(霊場)という位置付けは変わりませんでした。しかし、近頃神泉苑の垣根の中に作人を使って耕作をさせている人物がいると東寺側は指摘しています。その人物とは、この時、後花園天皇から一部の管理を認められていた唐橋在綱で(ト函139号-1)、東寺は唐橋在綱を相手に相論を起こしています。
以上のように、エ函86号が描かれた時(室町時代)の神泉苑は、神泉苑が造られた時(平安時代)と苑内の様子が大きく異なり、戦乱等により苑内の建物が壊され、荒廃が進み、天皇の苑地だった頃の面影はすっかり失われてしまいました。
最初に紹介したように現在も神泉苑は二条城の南側にあります。平安時代から現在に至るまで、庭園・田地・寺院など様々な姿に変化していきましたが、規模は大幅に縮小したものの神泉苑の場所は成立当時から変わっていません。
1000年以上その場所に在り続ける「神泉苑」に足を運んでみてはいかがでしょうか?
※1 太田静六『寝殿造の源流』(吉川弘文館、1987年)に掲載されている神泉苑図を元に筆者作成
(伊藤実矩:資料課)