「伽藍」と「御影堂」

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (4),「京都新聞」2016年2月27日付24面記事を転載

前回は、東寺(教王護国寺、京都市南区)の「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」と「弘法さん」がテーマでしたが、引き続き東寺の「二つの顔」についてみておきましょう。それは「後七日御修法」と「弘法さん」という二つの信仰形態にとどまるものではありません。その信仰形態の違いは、東寺全体の堂舎のあり方にも反映されています。

東寺の正門である南大門から入ると、金堂、講堂、食堂という堂々とした伽藍(がらん)が立ち並んでいます。また、南大門の右手には五重塔、左手には灌頂院(かんじょういん)が配置されています。これが、平安時代以来の鎮護国家の伽藍です。 

伽藍の中心になるのは講堂です。講堂の中心には金剛界大日如来を中心とした五仏、その向かって右に金剛波羅蜜を中尊とする五菩薩(ぼさつ)、また左に不動明王を中尊する五大明王の三群の尊像を配置しています。

これらの諸尊を守護するように四隅に四天王、左右辺の中央に梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)と相対して、合計21体の仏像が安置されています。

これは、弘法大師・空海の密教の教えを表現する立体曼荼羅(まんだら)といわれ、鎮護国家の理想を表すものといわれています。ここでは、平安時代以来の密教の教えを直接肌で感じようと、毎日多くの参詣者でにぎわっています。

これに対して、境内の西側には築地塀で囲まれた一画があります。これが西院で、その中心が御影堂(みえいどう)です。もとは弘法大師の住房のあとで、「大師御房」あるいは「寝殿」といわれ、秘仏の不動明王像が安置されていたので「不動堂」とも呼ばれていました。 

鎌倉時代の天福元(1233)年に、寺務親厳僧正の宿願として仏師康勝が弘法大師像を作り、西院不動堂に安置されます。これが、現在の御影堂の本尊の弘法大師像です。7年後の延応2(1240)年3月21日、大師像は不動堂の北面に移されます。

これが、御影堂の始まりで、毎日朝昼夕の3回の勤行が営まれるようになりました。また、この日の寅一点(午前4時ごろ)、新たに置かれた供僧が、3人の長者とともに御影供(みえく)を勤仕しました。

これが、現在の毎月21日の御影供(弘法さん)の始まりです。ここでは、現在も終日線香の煙が絶えることなく、敬虔(けいけん)な信者が祈願する姿が続いております。 

かくして、平安時代以来の堂々とそびえたつ伽藍を中心にした鎮護国家の修法、また鎌倉時代以来の和様の柔らかい親しみのある西院の御影堂を中心とした大師信仰がみられます。この二つが混然一体となって、日々の寺院としての営みが行われているのが現在の東寺の姿です。

(上島有:京都府立総合資料館元古文書課長・摂南大学名誉教授)


東寺百合文書から 永禄六年四月十一日 松永久秀書状「達筆ににじむ高い教養」

り函136号 松永久秀書状
り函136号「松永久秀書状」4月11日

東寺百合文書が現在に残った最大の功績は、加賀藩五代藩主・松雲公前田綱紀の「百合」の桐箱の寄進にありました。並びに東寺の寺宝保存の意識が高かったこともありますが、東寺に火災が少なかったことも大きな要因の一つといえます。 

東寺では平安初期の創建以来、火災らしい火災といえば、南北朝時代の康暦元(1379)年、失火のため御影堂が全焼したくらいでした。また、室町時代の文明18(1486)年には、土一揆の放火により南大門、金堂、講堂、鎮守八幡宮が焼失しています。

織豊期の文禄5(1596)年には、地震のため南大門、食堂などが倒れましたが、1200年の歴史を誇る東寺に大きな火災がほとんどなかったのは、希有なことといえます。 

五重塔は雷火で4回全焼しています。3回目の焼失は永禄6(1563)年4月2日の早朝でした。この時の見舞いとして、三好長慶の家臣として京都の行政にあたっていた松永久秀が東寺に送ったのがこの文書です。 

久秀は長慶に仕えて各地に転戦、多くの戦功をあげました。永禄6(1563)年には、長慶の子・義興を毒殺、嗣子・義継を奉じて主家の実権を握ります。ついで同8年には三好三人衆とともに将軍・足利義輝を襲って自害させ、同10年には奈良を攻めて東大寺の大仏殿を焼きました。これら久秀の行動は下克上の代表的なものとされています。

しかし、文書を読むと達筆であり、軽快でよい手紙です。やはり高い教養を身に付けていた武士であり、政治家でもありました。

(聞き手・仲屋聡:京都新聞記者)