嫌われた悪銭

買い物をしたときに、おつりでシワのないきれいなお札をもらうと、なんだか得した気分になりませんか?逆に、しわくちゃの使い古されたお札を渡されると、妙にがっかりしてしまいます。今回はそんなお金にまつわるお話です。

く函2号 廿一口方評定引付
く函2号「廿一口方評定引付」応永12(1405)年4月2日条

平安時代後期以降、朝廷や幕府は貨幣を造らず、中国から輸入した銅銭を使用していました。繰り返し使ううちに、どうしても銅銭はすり減り、きずがついてしまいます。こうした見た目の悪い銅銭を「悪銭」といいます。この悪銭の受け取りを拒否し、「精銭(せいせん、質の良い銅銭のこと)」での支払いを求めることを「撰銭(えりぜに)」といいます。とくに応仁の乱以降は撰銭が盛んに行われたため、室町幕府や戦国大名は撰銭令を出し、撰銭に関するルールを設けました。

その撰銭の様子を東寺百合文書から知ることができます。上にあげた文書の「一 悪銭替事」以下を見てください。

一 悪銭替事
先日、乗喜、河原城料足内、悪銭二貫三百文給之、悪銭可替進之由申、而二貫三百文、悉可進之条、不便歟、仍一貫之内五分一分、可被免之、仍二貫三百文内、四百六十文可有御免歟云々、

東寺領の大和国河原城荘(現在の奈良県天理市川原城町にあった荘園)から年貢が上がってきましたが、その中に悪銭2貫300文が混ざっていました。そこで、会計役の乗喜は悪銭の受け取りを拒否し、精銭での支払いを求めました。この事態にどのように対応すべきか、東寺は会議で検討しています。その結果、5分の1に当たる460文は悪銭で受け取ることにし、残りの1貫840文については精銭で納め直すように命じました。

では、なぜここまでかたくなに悪銭の受け取りを拒否したのでしょうか。実は、悪銭は額面通り使用することができず、1枚1文以下の価値しかありませんでした。どのくらいの価値になるかは、悪銭ごとに異なります。半分から2割程度の価値に落ち込むものや、全く価値がないものとしてみなされることもありました。つまり、悪銭では損をすることになるため、できるだけ精銭で受け取りたかったのです。

今も昔もお金の事情は複雑ですね。

(鍜治:歴史資料課)