描かれたものは・・・? その1

東寺百合文書のなかには、「差図(さしず)」と名づけられた文書がいくつか残っています。「差図」…聞き慣れないことばですが、いったいなんのことでしょうか?たとえばこの図、「摂津国垂水荘差図(せっつのくにたるみのしょうさしず)」と呼ばれています。なにかの地図のようにみえますが・・・少しじっくり見てみましょう。

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仕事のあとに、ちょっと一服

暑い夏の一日、力仕事の後には、ゆっくり一服したいものです。お酒を好む上戸と、好まない下戸。お茶がよいか、お酒がよいか…。その論争は、今から1000年以上前、唐の時代の中国で、すでに話の種になっていました。お茶もお酒も、そのころのものは、今のものとは少し違ったようです。しかし、その味もさることながら、薬効も高く、心身ともによく効くものとして、どちらも人びとに好まれてきました。

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絵図に広がる世界

一口に“文書”といっても文字ばかりではありません。今回は絵図の世界をひもといてみましょう。伊予国弓削島荘(いよのくにゆげしまのしょう)は製塩が盛んで、“塩の荘園”として広く知られてきました。場所は広島県と愛媛県にまたがる芸予諸島(げいよしょとう)の東端、現在の愛媛県越智郡上島町(おちぐんかみじまちょう)の「弓削島」と「百貫島(ひゃっかんじま)」にあたります(Googleマップ)。

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大変だった?茶店のはじまり その2

参詣人でにぎわう東寺南大門前で営業を始めた茶売り人たち。しかし、ときどき思いがけないトラブルが…。茶売り人の火鉢が原因で火災が発生し、彼らは東寺周辺から追い払われることになってしまいました。はたして、どうなってしまうのでしょうか…?

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大変だった?茶店のはじまり その1

大きなお寺や神社の参道には、今も多くの茶店やお土産店が軒を連ねています。こういったお店で門前がにぎわい始めたのは、室町時代のことでした。と言っても、この頃にはまだ店舗を構えたお店はあまりありません。ではいったい、当時の茶店はどんなふうなものだったのでしょうか?

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戦勝祈願―久世上下荘地頭職の寄進―

東寺鎮守八幡宮の加護により辛くも勝利を収めた足利尊氏。とはいえ、洛中および比叡山ではなおも戦闘が続いており、予断を許さない状況にありました。悲願の成就を望む尊氏は、“矢”が放たれた翌日に東寺鎮守八幡宮に所領を寄進し、更なる加護を武神に求めます。

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中世の画家のお給料事情

真言宗の開祖である弘法大師空海(774-835)は、亡くなった後も多くの人々の信仰を集めてきました。その肖像や生涯を描いた絵巻なども、数多く制作されています。なかでも、現在も東寺に所蔵されている「弘法大師行状絵詞(こうぼうだいしぎょうじょうえことば)」(重要文化財)は、全12巻に及ぶとても立派なものです。この絵巻の制作が計画された応安7(1374)年は、大師の生誕600年にあたる年でした。東寺にとっても、その記念となる一大事業だったのでしょうか。東寺百合文書の中には、この絵巻の制作にかかわる「大師御絵用途注文」という文書があります。

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「応仁の乱」で避難させたはずの寺宝や文書を焼失……

応仁元年(1467)からおよそ十年余りにわたり、守護大名たちが東西両陣営に分かれて京都を戦場とした争いが応仁の乱です。東寺では、開戦から間もない応仁元年(1467)9月に、戦火に備えて寺内の宝物や文書を醍醐寺に疎開させていました。

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安井宗運が見た戦国時代の滝山城

戦国時代の東寺は、三好長慶に裁判をおこす際、円滑に進めるため、安井宗運とコンサルタント契約を結んでいました。そのため、宗運は三好長慶の家臣で東寺の裁判を担当することが多かった松永久秀の下に何度も赴きました。

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安井宗運が見た戦国時代の堺

戦国時代の東寺では争いがおこると、室町幕府や近畿・四国地方を支配していた実力者の三好長慶に裁判を求めていました。しかし、裁判には長い年月がかかり、なかなか解決しません。そこで、東寺は裁判を円滑に進めるため、弘治2(1556)年に安井宗運とコンサルタント契約を結びます。宗運は訴訟の進め方を東寺にアドバイスしたり、三好長慶の家臣で東寺の裁判を担当した松永久秀の動静を連絡したりしました。

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写した文書も本物と同じ―「案文」のはたらき

案文(あんもん)と呼ばれる文書があります。名前からは下書きのように思われがちですが、そうではなくてオリジナルの文書(正文、しょうもん)を書き写した控え文書のことです。単に予備をつくって保存をはかるというだけではなく、さまざまな場面で利用するためのものでした。

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文書管理を支える「聖(ひじり)」

聖(ひじり)は西院御影堂で大師の御前を守っている僧侶です。定員が3名であるため三聖人(さんしょうにん)ともよばれていました。天福元(1233)年に西院経蔵に弘法大師像が安置されたことがきっかけでおかれたといわれています。

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「供僧」になるには

供僧とは、東寺の僧侶のうち、「廿一口方」や「学衆方」「鎮守八幡宮方」などの組織の一員として評定(会議)に参加したり仏事を勤めたりすることができる人です。寺内のそれぞれの組織ごとに供僧の定員は決まっていたので、欠員が生じると誰かが新しく供僧に選ばれる、ということになります。

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年行事はどのように選ばれる?

レ函41号 鎮守八幡宮供僧評定書
レ函41号「鎮守八幡宮供僧評定書」康永3(1344)年6月16日

この文書はある日の鎮守八幡宮方の評定を記録したもので、年行事(ここでは年預とよばれています)は、組織の主要メンバーである現職の供僧の中から選挙によって選ぶ、ということが決められていました。

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年行事

東寺の中にいくつもある供僧の組織それぞれには年行事(奉行、年預ともいいます)という役目の人がいました。年行事は組織の主要メンバーである供僧の中から選ばれ、任期の一年間、組織を運営する責任を負います。

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