参詣人でにぎわう東寺南大門前で営業を始めた茶売り人たち。しかし、ときどき思いがけないトラブルが…。茶売り人の火鉢が原因で火災が発生し、彼らは東寺周辺から追い払われることになってしまいました。はたして、どうなってしまうのでしょうか…?
原因は自分たちにあったとはいえ、茶売り人たちは困ってしまいます。しかし、直接東寺にかけ合ったところで聞き入れてはもらえません。そこで彼らは、醍醐寺三宝院の僧、若狭法眼以円を頼ることにしました。三宝院は東寺とかかわりが深く、以円が東寺に送った書状は、これ以外にも何通か残っています。
茶売り人たちは、その以円につてがあったのでしょうか。以円は、茶売り人たちの依頼に応じ、20日後の4月22日、再び東寺周辺で営業ができるように願う書状を、東寺に提出します。
そこで、東寺側もしかたなくそれに応じ、新しい条件を課した上での営業再開を認めることにしました。その決定が、応永11(1404)年7月20日の会議の議事録に記されています。
7月23日、茶売り人たちは、営業再開にあたって改めて下の請文を提出させられました。
ここでは
- 南大門大路(九条大路)をはさんで、それより南側で営業すること。
- 火鉢や茶道具を南大門の下や築垣のかげに置いたり、寺内などに預けたりしないこと。
- 軒先で雨宿りをしたり、寺内をみだりにうろついたりしないこと。
などの項目があげられています。 前回の請文にくらべると、行動や活動範囲自体がかなり制限されてしまったようです。そして最後には、「権門勢家」(有力者)に助けを求めないこと、としっかり誓わされています。今回は以円からの申し入れに免じて許したけれど、次はないぞ、ということでしょうか。
これでようやく一件落着、と思いきや…それから7年後、茶売り人たちはまたもや請文を提出させられています。
以前の項目に加えて、
- 茶売りの営業によって南大門内外が汚くなっているので、毎日掃除をすること。遊女を集めて接客させないこと。
- 茶売りの営業によって南大門内外が汚くなっているので、毎日掃除をすること。遊女を集めて接客させないこと。
といったきまりも、新たに付け加えられています。
お客さんも次々増えつつあったのでしょうか。何度取り締まられても、茶売り人たちはへこたれず、さらに工夫をこらしてたくましく商売を続けたようです。この請文からは、門前の茶屋がずいぶん繁盛し、商売も本格的になってきた様子がわかります。当時のにぎわいが感じられるようですね。
応永10(1403)年 4月 | 茶売り人、1回目の請文提出(ケ函98号) |
応永11(1404)年 4月1日 | 火災発生 |
応永11(1404)年 4月3日 | 東寺、廿一口方評定で追い払うことを決める(く函1号) |
4月22日 | 茶売り人、再開を願う書状提出(や函118号) |
4月26日 | 東寺、廿一口方評定で再開容認(く函1号) |
7月23日 | 茶売り人、2回目の請文提出(し函61号) |
応永18(1411)年 2月10日 | 茶売り人、3回目の請文提出(や函54号) |
息をもつかせぬ?両者の攻防。…東寺がまめに評定をひらき、さまざまな案件にすばやく対応していたこともわかります。
(松田:歴史資料課)