一口に“文書”といっても文字ばかりではありません。今回は絵図の世界をひもといてみましょう。伊予国弓削島荘(いよのくにゆげしまのしょう)は製塩が盛んで、“塩の荘園”として広く知られてきました。場所は広島県と愛媛県にまたがる芸予諸島(げいよしょとう)の東端、現在の愛媛県越智郡上島町(おちぐんかみじまちょう)の「弓削島」と「百貫島(ひゃっかんじま)」にあたります(Googleマップ)。
北を上に差図(さしず)の向きをかえて、今の地図と見比べてみると、L字型をした島が「弓削島」で、その北東に見える「辺屋路(へやじ)島」が「百貫島」です。簡略化されていますが、島の地形上の特徴をよくつかんでいますね。
延応元(1239)年、後白河天皇の愛娘“宣陽門院覲子(せんようもんいんきんし)”の寄進を境に、弓削島荘は東寺領としての歩みを始めます。奇しくも、地頭の横暴が見え出す時期でもありました。地頭による荘園侵略は常に悩みの種…。正嘉3(1259)年に一度は和解するも、いざこざが絶えなかったようです。安定した荘園経営を目指す東寺は、土地を領家(東寺のこと)分と地頭分に分け、互いに干渉しないとすることで、問題の解決を図りました。このように、領家と地頭との間で起こったトラブルを解決するために土地を分割することを“下地中分(したじちゅうぶん)”といいます。
上の2通の文書によると、乾元2(1303)年に領家の雑掌(ざっしょう、現地で東寺のために年貢の取り立てなどにあたる人)と地頭代との間で分割の取り決めがなされ(マ函16号)、その数ヶ月後に鎌倉幕府に承認された(ヒ函28号)ことがわかります。弓削島は3分割され、島の中央部の大串(おおぐし)方は地頭分、その南北両脇の串(くし)方および鯨(くじら)方は領家分に決まりました。差図にはその樣子が描かれています。年月日未詳ですが、これまでの経緯を踏まえると、乾元2(1303)年の下地中分をきっかけに作成されたものと考えることができるでしょう。
ただ、島の分割は順調には進まなかったようです。上の文書によれば、折り合いがつかず、徳治2(1307)年になっても境界を確定するための標識である「牓示(ぼうじ)」を挿せずにいました。諸説ありますが、正和2(1313)年頃にようやく分割の実施に至ったといわれています。
(鍜治:歴史資料課)