大きなお寺や神社の参道には、今も多くの茶店やお土産店が軒を連ねています。こういったお店で門前がにぎわい始めたのは、室町時代のことでした。と言っても、この頃にはまだ店舗を構えたお店はあまりありません。ではいったい、当時の茶店はどんなふうなものだったのでしょうか?
当時、お茶を売る人びとは「一服一銭(いっぷくいっせん)」と呼ばれ、門前に茶道具を持ってやってきて、参詣客を相手にお茶を売っていました。その姿は、絵にも描かれています。室町時代の終わりから江戸時代にかけて、「洛中洛外図屏風」と呼ばれる屏風絵が多くつくられました。京都の市中の様子や、そこで暮らす様々な職業の人々の様子が描かれており、そのなかには、この「一服一銭」茶売り人の姿も見られます。彼らは寺社の門前にござを敷き、そこに炉をかまえてお茶をたてたり、てんびん棒に茶釜と水桶をかついで売り歩いたりしていたようです。
東寺の南大門前も多くの参詣客でにぎわい、茶売り人もそれをめあてに集まってきました。東寺百合文書のなかには、こうした門前での商いに関する文書がいくつかあり、当時の様子や東寺側がそれにどう対応していたのか、知ることができます。
応永10(1403)年4月、東寺は茶売り人たちに、次の請文(誓約書)を提出させます。
- 今までいたところに住み、門前の石段に住んだりしないこと。
- 東寺内にある鎮守八幡宮の宮仕の部屋に、茶道具を預けないこと。
- お堂のお線香から種火を取らないこと。
- お堂の閼伽井(あかい)(お供え用の水を汲む井戸)の水を汲まないこと。
などが挙げられています。誓約書まで書かせたのは、こういった行為が後を絶たず、東寺が火の元の管理などについて心配したからでしょう。末尾には、これらの事項に違反した場合、東寺周辺から追い払われる、ということも記されています。
ところが…この請文からちょうど1年後、東寺側の危惧は現実のものとなってしまいます。茶売り人が南大門脇の「乞食(こつじき)」に預けていた火鉢が原因で、火災が起きてしまいました。火は燃え広がることなく、無事消し止められたものの、東寺はその日のうちにさっそく評定(会議)を開き、茶売り人たちを東寺周辺から追い払うことを決めてしまいます。
上の引付(会議の議事録)には、そのことが記されています。日付と評定に参加した供僧の名、そして議事内容が記されていますが、供僧の名のすぐ後、付け加えるように少し小さめの文字で、「一 南大門茶買(売)可追却事」という一条が書かれています。急な事態だったので、その日の評定の案件に大至急取り入れられた様子がわかります。
「追却」とは「追い払う」ということ。この決定によって、茶売り人たちは本当に追い払われてしまうのでしょうか?はたしてその運命は…?続きは次回、お楽しみに。
(松田:歴史資料課)