東寺鎮守八幡宮の加護により辛くも勝利を収めた足利尊氏。とはいえ、洛中および比叡山ではなおも戦闘が続いており、予断を許さない状況にありました。悲願の成就を望む尊氏は、“矢”が放たれた翌日に東寺鎮守八幡宮に所領を寄進し、更なる加護を武神に求めます。
上の文書に見える「久世上下荘」は東寺のお膝元、今でいえば、東海道新幹線で新大阪方面へ京都を発ち、桂川の鉄橋を渡河した地に広がる西岡にあった荘園です(Googleマップ)。「天下太平、国家安寧」とありますが、合戦の最中にあったことを念頭に置くと、その本意は戦勝祈願にあったと見なすことができるでしょう。
かくして、尊氏以降歴代の室町幕府将軍は東寺を手厚く保護する一方で、東寺側も庇護を受ける根拠として尊氏の武運を開いた“矢”の逸話をたびたび引用するようになりました。次に挙げるのは寄進から200年以上のちの文書ですが、冒頭に“矢”の逸話が引かれています。
ところで、以前、廿一口方の年行事は12月末に交代しますが、久世方(鎮守方)では7月から奉行が交代するとご説明しました(「年行事はどのように選ばれる?」)。「なぜ7月から?」と不思議に思われた方も多くおられるのではないでしょうか。
実は久世上下荘地頭職が寄進された“7月1日”にちなんでいるのです。供僧組織の年中行事は1月1日に始まり12月末に終わりますが、鎮守八幡宮方のみ例外で7月1日~翌年6月末のサイクルで回っていました。当然、会議の議事録である評定引付の記録や年行事(奉行、年預とも)の交代もその影響を受けることになります。
では、その東寺鎮守八幡宮供僧はどのような経過を経て設置されるに至るのでしょう?続報をお楽しみに。
(鍜治:歴史資料課)