「応仁の乱」で避難させたはずの寺宝や文書を焼失……

応仁元年(1467)からおよそ十年余りにわたり、守護大名たちが東西両陣営に分かれて京都を戦場とした争いが応仁の乱です。東寺では、開戦から間もない応仁元年(1467)9月に、戦火に備えて寺内の宝物や文書を醍醐寺に疎開させていました。

ち函19号「廿一口方評定引付」文明2(1470)年8月10日条

ところが、文明2年(1470)になって醍醐寺が焼き討ちにあって、預けていた寺宝の一部が焼失してしまいます。上の文書は文明2年の廿一口方の会議議事録で、8月10日のところには「右件御道具等」を「去応仁元年九月廿一日」に醍醐寺三宝院に移動させていたこと、先月(文明2年7月)19日に醍醐寺の多くの建物が戦火に巻き込まれたことが書かれています。

応仁の乱では、東寺は西軍の支配下にあったとされていますが、戦闘地帯から離れた場所に位置していたので、一度も戦火に遭うことなく無事でした。一方、醍醐寺は西軍から攻撃を受けて炎上、五重塔を残して大半が灰燼に帰し、東寺から預かっていた寺宝や文書の一部を焼失させてしまったのです。安全を期して寺宝を醍醐寺へ預けただけに、何とも残念な結果となりました。

ただし東寺としても、醍醐寺に寺宝等を預けてそれで安心だったかというと、そうでもなかったようです。寺宝を避難させてから1年半ほど経過した頃、応仁2年(1469)4月25日や5月18日の「廿一口方評定引付」(天地之部37号)の記事によると、西軍による醍醐寺攻めの噂が流れたことで、その噂の真偽と醍醐寺に預けた寺宝の引き取り経路などを会議で話し合っていました。醍醐寺に預けたままでは危ないと考え、寺宝を安全に引き取る経路まで相談しているのです。戦局や寺宝の管理に注意を払っている様子がうかがえますが、その後なぜか東寺への引き取りは見送られてしまったようです。

天地之部37号「廿一口方評定引付」応仁3(1469)年4月25日条
天地之部37号「廿一口方評定引付」応仁3(1469)年5月18日条