昭和36年(1961)、東寺近くの、かつて羅城門が建っていたと考えられる地の付近から、発掘調査によって石塔が出土しました。その石塔には、次のような文字が記されていました。
天正八年 (梵字:アー)権僧正亮祐大和尚位 壬三月十八日
天正8年(1580)閏3月18日に没した亮祐という僧侶の墓碑です。調べてみると、彼は初め祐重、のち亮祐という名の東寺の僧侶で、宝厳院の院主をつとめていたことがわかりました。そう、「安井宗運が見た戦国時代の堺」、「 安井宗運が見た戦国時代の滝山城」で、弘治2年(1556)に安井宗運から松永久秀と連絡をとる方法の指南を受けたことが紹介されている、宝厳院祐重その人だったのです。
彼は松永久秀に手紙を送るにあたり、文章を念入りに検討していたようで、例えば下書きと思われる6月13日「宝厳院祐重書状案」(チ函240号)には、文面を修正した跡が残っています。
祐重の若いころについては、大永3年(1523)の正月21日に行われた鎮守八幡宮方の評定(会議)では、三位公祐重を供僧に加えるかどうかが議題になっていますし、供僧になると、大永6年(1526)12月20日の鎮守八幡宮方の評定に出席しています。
その後も彼は、寺内組織の供僧や年行事(「年行事」「年行事はどのように選ばれる?」参照)として、あるいは宝厳院の院主として、東寺の諸方面で活動しました。例えば永禄5年(1562)の年末には観智院栄盛に造営方の手文箱を引き継いでいますし(ア函276号)、祐重が亮祐と名前を改めた永禄6年(1563)の年末には、宝菩提院禅我に最勝光院方の手文箱を引き継いでいます(オ函212号)。
また元亀元年(1570)9月7日付けで、最勝光院方の供僧であった亮祐たち5名が署名している文書包紙には、織田信長の朱印状や三好長慶の折紙も包まれていたようです(ア函278号)。
羅城門跡地付近出土石塔に記された亮祐は歴史上無名の存在ですが、東寺百合文書のなかには、彼が受け取ったり、書いたり、管理したりしていたものがあり、50年以上にわたって彼の生きた証を追うこともできるのです。
(長村祥知:京都府京都文化博物館 学芸員)