安井宗運が見た戦国時代の堺

戦国時代の東寺では争いがおこると、室町幕府や近畿・四国地方を支配していた実力者の三好長慶に裁判を求めていました。しかし、裁判には長い年月がかかり、なかなか解決しません。そこで、東寺は裁判を円滑に進めるため、弘治2(1556)年に安井宗運とコンサルタント契約を結びます。宗運は訴訟の進め方を東寺にアドバイスしたり、三好長慶の家臣で東寺の裁判を担当した松永久秀の動静を連絡したりしました。

ゑ函116号 安井宗運書状
ゑ函116号「安井宗運書状」3月5日

年未詳3月5日付の安井宗運書状(ゑ函116号)も、そうした東寺へのレポートの一つです。宗運は松永久秀のお母さんが病気のため堺で療養中という情報をつかむと、早速薬をもって堺へ向かいました。そして、東寺の宝厳院祐重や観智院栄盛にも、お見舞金をもって堺へ来るように勧めます。さらに宗運は追伸の部分、小さい文字で一番右側や本文の隙間に書いている部分ですが、ここで、久秀のお母さんは既に快方に向かっていること、むしろ、お母さんを心配して疲れている久秀を、持参した薬で元気にしたことを述べています。また、自分は堺の町の北の入り口である柳町にある経王寺の門前の大きな二階建ての家に宿泊していると告げています。この家には弘治2(1556)年6月23日にも泊まっており(ニ函282号)、宗運がお気に入りの宿だったようです。

ニ函282号 安井宗運書状
ニ函282号「安井宗運書状」6月23日

宗運のレポートのおかげで、戦国時代の堺は江戸時代の環濠よりも一回り小さく、柳町が北端であったことや、二階建てのホテルがあったこと、最先端医療の場であったことがわかりました。それに、後に東大寺の大仏を焼いた松永久秀も、お母さん思いだったのですね。

(天野忠幸:関西大学 非常勤講師/滋賀短期大学 非常勤講師)