東寺百合文書のなかには、「差図(さしず)」と名づけられた文書がいくつか残っています。「差図」…聞き慣れないことばですが、いったいなんのことでしょうか?たとえばこの図、「摂津国垂水荘差図(せっつのくにたるみのしょうさしず)」と呼ばれています。なにかの地図のようにみえますが・・・少しじっくり見てみましょう。
中世には、荘園がどんな土地なのか調べるための図が、しばしば作られました。年貢としてのお米や作物を、誰がどのくらい納めるのか調べたり、田畑に水を引くための用水の配分のことで争いが起こったとき、現地の状況を調べたり…さまざまな目的や経緯で、その荘園の図が作られました。それらの図のことを、荘園絵図と呼びます。
荘園絵図のなかでもとくに、田畑や用水などを簡略な墨の線で平面的に描いたものが、「差図」もしくは「指図」と呼ばれています。ただし、「差図」は荘園絵図だけではありません。お屋敷やお寺、町の敷地の図面、法会などの際の道具や座席の配置図なども、まとめて「差図」と呼んでいます。
一枚の絵図や差図から、その荘園の領域や、そこで暮らす人びとの生活の様子など、多くのことがあきらかにされてきました。でもむずかしいことはさておき、まずはこの差図に描かれた世界を楽しんでみましょう。
上の画像は、摂津国垂水荘、今の大阪府、吹田市と豊中市がちょうど接しているあたりにあった荘園の図です。作られたのは、寛正4(1463)年10月、今からおよそ550年前のことになります。年貢としてお米や作物を、誰がどのくらい納めるか調べるために、土地の面積をはかり、その所有者を定めることを「検注」といいました。垂水荘で、その検注がおこなわれた際に作られたのが、この差図です。
ちょっと注意しておきたいのが東西南北で、この差図では下側が北になっています。こういった荘園の絵図は、広げて周りから見るものだったようです。よく見ると、書かれた文字やイラストも、上下左右の向きがばらばらですね。
この図の上の方、左右にのびているのが「三国(みくに)川」、今の神崎川です。川沿いの道には「三国堤」と記されています。三国川は、淀川の北を流れながら、大阪湾にそそぎます。垂水荘は、その三国川北岸に広がる荘園でした。今もこのあたりに「三国」という地名が残っています。
図の上部に描かれる三国川、その左上のあたり、三日月型のものがなにか浮かんでいますね。くるっとさかさまにしてみると・・・
舟の絵です。笹舟のような簡素な舟に、櫓が一本。このころ三国川には、渡し舟も行き来していたそうです。その舟を描いたものでしょうか。
木もあちこちに描かれています。図の右上に一本(A)、中央南北にのびる川沿い(B)と図の左下(C)にも一本ずつ。よく見ると、画面左下のお寺(帰命寺)とお宮のまわりにも、それぞれなにか描かれています。
(A)の木は、太い幹と、横に広がりながら上にのびた細い葉っぱ。りっぱな松の木でしょうか。(B)の木は、枝ぶりは(A)の木に似ていますが、あまり葉はついていません。(C)の木は、(A)(B)とは少し違う枝ぶりで、上に伸びているようです。
3つの建物のうち、左側少し上にある帰命寺のまわりに茂っているのは、竹藪のようにみえます。お寺のまわりに竹林や竹藪があるのは、むかしから変わらない光景なのかもしれません。
お宮には、神社であることを示す鳥居が描かれています。お社の手前に描かれているのは、生け垣のようなものでしょうか。
左下にももうひとつお寺、「円隆寺」とあります。『吹田市史』によると、円隆寺は東寺ともかかわりの深いお寺で、ここ垂水荘の信仰の中心だったようです。扉のついた門と、その脇には土塀が少し描かれており、帰命寺とはまた違った雰囲気です。
お寺と神社、建物は同じように描かれていますが、まわりのものはそれぞれの特徴をとらえて描かれたのではないでしょうか。どの絵も簡単に描かれているようにみえて、実はしっかり描き分けられています。見慣れない文字が並ぶ古文書ですが、こんなふうに興味深いイラストの入ったものもあるのですね!
最後に、三国川に浮かぶ島をごらんください。
大きな「本嶋」と小さな「新嶋」。ふたつの島の間には、草のような木のようなものが描かれています。川の中に生えた葦のようなものでしょうか。でも実は…その答えは、また別の文書のなかにあるのです!
それはまた次回、お楽しみに…。
(松田:歴史資料課)