評定引付にみえる中世

評定引付は供僧による会議の内容を記したものですが、そのなかには現代に生きる私たちに、ずいぶん昔の中世の様子をあれこれ想像させてくれるような記述もありました。

天地之部41号「廿一口方評定引付」文明10(1478)年3月4日条

上の廿一口供僧方引付は、応仁・文明の乱が終わってまもないころ、文明10年(1478)のものです。3月4日の条には「天下静謐(てんかせいひつ)」つまり戦乱がないときには東寺では1日で40~50貫文の散銭(賽銭)が得られ、天候次第では参詣者がさらに増すだろう、と記されています。東寺が多くの人々の信仰の対象となり、境内が人出でにぎわっていたことがうかがえます。

ね函22号 鎮守八幡宮方評定引付 文明14(1482)年2月21日条
ね函22号「鎮守八幡宮方評定引付」文明14(1482)年2月21日条

これは鎮守八幡宮方の引付で、文明14(1482)年2月21日の条に、室町幕府8代将軍であった足利義政の命令で周辺の寺院と荘園から人夫(労働者)が集められことが記されています。鎮守八幡宮方は京都近郊に久世上下荘(現在の京都市南区)という所領を管理しており、東寺を代表してこの求めに応じました。この人集めは、義政の邸宅である「東山御山荘」、現在の銀閣寺を建設するためで、東寺領荘園の住人もいまの銀閣寺に一役買っていました。

ワ函79号 廿一口方評定引付 文明18年9月18日条
ワ函79号「廿一口方評定引付」文明18(1486)年9月18日条

文明18(1486)年9月18日の条には、土一揆の勢力が東寺に乗り込んできて立てこもり、武家と戦いになったため金堂・講堂や鎮守八幡宮など伽藍の多くが焼けてしまったことが記されています。このときに焼失した伽藍が復興されるのは約1世紀後のことになります。