供僧とは、東寺の僧侶のうち、「廿一口方」や「学衆方」「鎮守八幡宮方」などの組織の一員として評定(会議)に参加したり仏事を勤めたりすることができる人です。寺内のそれぞれの組織ごとに供僧の定員は決まっていたので、欠員が生じると誰かが新しく供僧に選ばれる、ということになります。
寺内の組織のひとつ、廿一口供僧方では、供僧から退こうとする者が候補を選び、その人物の器用(器要と書くこともあります。資質や能力の意味)をしっかりと見極めた上で供僧の地位を譲り、さらに評定でその人物の加入が認められる、という過程を経て新しい供僧が誕生します。
応安6(1373)年に師の頼暁が弟子の頼遍へ供僧職を譲ったときには次のような文書が作成されていました。
師から弟子へ供僧職が譲られるなどして次の供僧候補が選ばれて、評定でその人物の加入が認められると、現役の供僧一同が署名する下のような拳状(推薦状)が作成されます。拳状はいったん仁和寺宮へ届けられ、そこから東寺長者(東寺全体の長)へと命令が下りました。供僧の決定は東寺の中だけでできることではなかったようです。
新しく供僧に任じられた僧侶は、組織のメンバーとして決まりを守ることを約束する下のような請文(うけぶみ、誓約書)を提出していました。
その決まりを守らなかったり、「衆命」(その組織の運営方針)に従わなかったりすると義絶などの制裁を受けることもあります。下の文書はその義絶の一例です。学衆方では仁和寺伝法会という仏事には参加しないと決めていたのですが、尭忠法印・宗寿僧都・尭全僧都は勝手に出席してしまい、学衆方の一同は「以外次第(もってのほかのしだい)」であるとして、この3人とは義絶すると誓約しています。
その学衆方ですが、メンバーを任ずる手続きについての定めを書いた文書が残っています。シ函13号は元徳元(1329)年10月11日の評定で決められたことをまとめたもので、このときの評定で組織の中心メンバーである学衆を任じる手続きが定められました。
学衆方では、廿一口供僧方とは異なり、供僧を退く者が次に供僧となる者を選び供僧職を譲る、ということは行われていませんでした。供僧は器用が最重要であり、「稽古抜群者」つまりずばぬけた資質を持つ者であれば仁和寺・醍醐寺など他の真言宗寺院の出身でも供僧として学衆方に加入することができました。学問を専門とする学衆方らしいきまりといえます。
それぞれの組織によって供僧・学衆を選ぶルールは少しずつ違っていましたが、評定を経て決められるという点は同じです。組織が自治的に運営されていた様子がわかるのではないでしょうか。