戦勝祈願―久世上下荘地頭職の寄進―

東寺鎮守八幡宮の加護により辛くも勝利を収めた足利尊氏。とはいえ、洛中および比叡山ではなおも戦闘が続いており、予断を許さない状況にありました。悲願の成就を望む尊氏は、“矢”が放たれた翌日に東寺鎮守八幡宮に所領を寄進し、更なる加護を武神に求めます。

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中世の画家のお給料事情

真言宗の開祖である弘法大師空海(774-835)は、亡くなった後も多くの人々の信仰を集めてきました。その肖像や生涯を描いた絵巻なども、数多く制作されています。なかでも、現在も東寺に所蔵されている「弘法大師行状絵詞(こうぼうだいしぎょうじょうえことば)」(重要文化財)は、全12巻に及ぶとても立派なものです。この絵巻の制作が計画された応安7(1374)年は、大師の生誕600年にあたる年でした。東寺にとっても、その記念となる一大事業だったのでしょうか。東寺百合文書の中には、この絵巻の制作にかかわる「大師御絵用途注文」という文書があります。

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「応仁の乱」で避難させたはずの寺宝や文書を焼失……

応仁元年(1467)からおよそ十年余りにわたり、守護大名たちが東西両陣営に分かれて京都を戦場とした争いが応仁の乱です。東寺では、開戦から間もない応仁元年(1467)9月に、戦火に備えて寺内の宝物や文書を醍醐寺に疎開させていました。

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安井宗運が見た戦国時代の堺

戦国時代の東寺では争いがおこると、室町幕府や近畿・四国地方を支配していた実力者の三好長慶に裁判を求めていました。しかし、裁判には長い年月がかかり、なかなか解決しません。そこで、東寺は裁判を円滑に進めるため、弘治2(1556)年に安井宗運とコンサルタント契約を結びます。宗運は訴訟の進め方を東寺にアドバイスしたり、三好長慶の家臣で東寺の裁判を担当した松永久秀の動静を連絡したりしました。

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写した文書も本物と同じ―「案文」のはたらき

案文(あんもん)と呼ばれる文書があります。名前からは下書きのように思われがちですが、そうではなくてオリジナルの文書(正文、しょうもん)を書き写した控え文書のことです。単に予備をつくって保存をはかるというだけではなく、さまざまな場面で利用するためのものでした。

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文書管理を支える「聖(ひじり)」

聖(ひじり)は西院御影堂で大師の御前を守っている僧侶です。定員が3名であるため三聖人(さんしょうにん)ともよばれていました。天福元(1233)年に西院経蔵に弘法大師像が安置されたことがきっかけでおかれたといわれています。

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「供僧」になるには

供僧とは、東寺の僧侶のうち、「廿一口方」や「学衆方」「鎮守八幡宮方」などの組織の一員として評定(会議)に参加したり仏事を勤めたりすることができる人です。寺内のそれぞれの組織ごとに供僧の定員は決まっていたので、欠員が生じると誰かが新しく供僧に選ばれる、ということになります。

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年行事はどのように選ばれる?

レ函41号 鎮守八幡宮供僧評定書
レ函41号「鎮守八幡宮供僧評定書」康永3(1344)年6月16日

この文書はある日の鎮守八幡宮方の評定を記録したもので、年行事(ここでは年預とよばれています)は、組織の主要メンバーである現職の供僧の中から選挙によって選ぶ、ということが決められていました。

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年行事

東寺の中にいくつもある供僧の組織それぞれには年行事(奉行、年預ともいいます)という役目の人がいました。年行事は組織の主要メンバーである供僧の中から選ばれ、任期の一年間、組織を運営する責任を負います。

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文書を出し入れするときには

御影堂(みえどう)の西院文庫に納められた文書は、先例を調べるため、裁判で証拠として提出するためなど、使う必要があって持ち出されることがあります。文書を持ち出そうとする人は「西院文書出納帳」という帳簿に名前を書く必要がありました。これを見ると500年以上も前に誰がどんな文書を持ち出したかということがわかります。

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禁遅刻欠席。評定のルール

東寺の中に成立した僧侶の組織は、それぞれ自治的な運営をしていて、重要なことがらはすべて評定(ひょうじょう)という会議で決めていました。百合文書からは、組織の主要メンバーである供僧(くそう)たちが評定に臨む姿をみることができます。

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500年前の文書も…中世東寺の文書管理

コ函14号 宝蔵破損文書等所出日記
コ函14号「宝蔵破損文書等所出日記」応永9(1402)年7月14日

上の文書は、室町時代の中ごろ、応永9(1402)年に修理する文書を宝蔵から取り出したときの記録です。6通と1結の文書が取り出されていて、そのなかには「聖宝別当補任官符」が含まれていました。聖宝(しょうぼう。醍醐寺を開いた僧です)が東寺の凡僧別当に補任されたのは延喜2(902)年のことですので、室町時代に500年も前の文書がきちんと残されていたことがわかります。さらに、将来のためそれを修理しようともしていたのです。

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