「描かれたものは・・・?」のその1とその2で取り上げた「摂津国垂水荘差図」を、資料館の企画展「高瀬川開削400年記念~高瀬川と京都の水運」で展示しました。京都の水運の展示に、淀川支流の神崎川の資料を並べることに疑問を持たれる方もあるかもしれませんが、川は繋がっているということでご理解ください。さて、その準備過程で、差図に描かれている船が、どのような船であるか、展示の担当者のなかで議論が分かれました。
Aさんは渡し船であると言います。Bさんは絵を見ただけではどちらとも言えないとの考えです。さて、さて……。展示場に並べる解説文には、どのように書くか。時間も迫ってきて、最終的には「櫓を持つ一艘の渡し船が川面に浮かんでいます」と、Aさんの意見を採用しました。しかし、それで問題が解決したわけではありません。
Aさんの渡し船説の根拠を見てみましょう。
東寺百合文書のなかに「廿一口方評定引付」という冊子があります。東寺の僧侶の一組織である廿一口方で話し合われた会議録で、寛正4(1463)年の冊子(天地之部36号)の10月13日条に、垂水荘に関係する記事が載ります。それによると、「渡船のこと治定なり。他領と寺領、毎月15日つつ渡すなり。仍て船賃毎月廿疋なり。只今は入道、取の由、申す者なり。その段、披露しおわんぬ。」とあります。これは、垂水荘の代官である榎木慶徳が、神崎川に渡し船を出して南側の十八郷と往来していることについて、問題が決着したことを記しています。争点は、日数と船賃でした。この3年前、東寺の公文から渡し船について尋ねられた時、榎木慶徳は御領中には渡しは存在しないと答えていました(チ函121号)。このことより、この間に榎木慶徳らが中心となって渡し船が始められたと考えられています(※1)。
差図の描かれた寛正4年には十八郷と垂水荘の間には確かに渡し船がありました。Aさんの意見がごもっともであるように思われます。次に、Bさんの声に耳を傾けてみましょう。
垂水荘差図には、作成者である乗円祐□(深)と乗観祐成の名前が載ります。この二人は、東寺から垂水荘の浜見をするために派遣された上使です。浜見とは、この時に同時に作成された「摂津国垂水荘浜見取帳」一巻(ぬ函45号)と「摂津国垂水荘浜見目録」(わ函16号)を見れば、検地のことだと言えます。
したがって、垂水荘差図は検地にともなう関係図面です。寛正4年の検地の目的は、至徳3(1386)年の浜見と比較して、面積の増減等がないかということでした。一番の関心は田畠であり、差図に描かれているのも、領地のある条里の坪付けの位置が主要事項でした。つまり、寺や宮、地物としての樹木、交通としての船などは、差図の添え物であったといえます。次に、船の描き方を見てみましょう。船の内側には梁が描かれていて、それなりの船だと言えます。船には棒が一本描かれていて、櫓ではなく棹です。
しかし、これだけでは描かれた船が渡し船かどうかまで、わかりません。Bさんの声を引き続き、聞いてみましょう。
次に描かれている船の向きです。船は上流(差図の左側:東)から下流(差図の右側:西)に向かっているように見えます。決して、十八郷(差図の上側:南)と垂水荘(差図の下側:北)を往来する姿には描いていません。船の位置は、垂水荘と本嶋の間の河でなく、本嶋の南側の河、つまり「大河」の本流です。このことから、大河を上下する船を表示するものとして描かれたのではないでしょうか。代官の榎木氏の活動は注目できますが、それが直に絵図に反映されたとは言いかねます。
Bさんの説明も、少しまわりくどいところがありますが、それなりに頷けます。
さて、読者の皆さんは、どのようにご覧になりますか。Aさんか、Bさんか、それとも別の見方か。絵図は、いろいろな見方があって、楽しい資料ですね。
※1 堀祥岳「榎木慶徳による勧進と開発」、『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第49輯第4分冊、2004年
(大塚 活美:京都府立総合資料館 歴史資料課)