こわいこわい星の話 その1

「星合(ほしあい)」ということばがあります。1年に1度、陰暦7月7日の夜に、牽牛と織姫、ふたつの星が出会う、つまり七夕のこと。ロマンティックな伝説に彩られた、今でもわたしたちになじみ深い行事です。

しかし、実はもうひとつ、まったく別の意味もありました。「二星合(にせいごう)」、「三星合(さんせいごう)」などといって、水星、金星、火星、木星、土星のうち、二つの星がとても近づいて見えたり、三つの星が集まって見えたりする現象のことをいったようです。こちらの「星合」は、ロマンティックどころか、なにか悪いことが起こる前ぶれなのではないかと恐れられました。

空気の澄んだ冬の夜空は、星がとてもきれいに見えます。でも、きれいとばかり言っていられない…?今回は、ときに大騒動まで巻き起こした夜空の星の話です。

夜空の星の動きをみて、ひとの運勢や世の中の動きを占おうとする「天文道」は、もともと古代中国にはじまり、日本にも伝えられました。今でも、星占いをしたり、流れ星に願い事をしたり…そのなごりは残っています。しかし、当時の人びとにとって、星の動きは今よりもずっと重要なことでした。中世にはとくに、この天文道が盛んになり、幕府や朝廷には、天体観測をする専門の役職まで置かれていました。今ほど天体のしくみがわかっているわけではありません。二星合や三星合、また流星群や彗星など、いつもと違う星の動きは、大変不気味なことに感じられたのでしょう。

そういった「天変」が起こるたびに、幕府や朝廷は、お寺や神社に祈禱を頼み、なんとかわざわいを避けようとします。東寺も、しばしばその祈禱を頼まれました。東寺百合文書のなかには、それに関する文書がいくつか残っています。次の文書は、応永9(1402)年の冬、夜空に大きな彗星が現れたとき、幕府からの祈禱命令が、東寺に伝えられたものです。

ホ函38号 広橋兼宣奉書
ホ函38号 「広橋兼宣奉書」応永9(1402)年2月11日

「17日から、彗星の祈禱を開始しなさい。必ず天に通じるように、特に念入りにおこなえ、と東寺に伝えるよう仰せがあった。」と書かれています。当時は室町幕府全盛期、足利義満が権勢を誇った時代でした。それでもやっぱり…それとも、だからこそ…?星の変異はこわかったのでしょうか。義満も恐れた彗星の話は…次回をお楽しみに。

(松田:歴史資料課)