こわいこわい星の話 その2

わたしたちは今も、星占いをしたり、流れ星に願い事をしたり…しばしば夜空の星に思いを馳せます。しかし、中世の人びとにとって、星の動きは今よりもずっと重要なことでした。流星群や彗星など、いつもと違う星の動きは、大きな天変、なにか悪いことが起こるまえぶれではないかと恐れられ、ときには大騒ぎにまで発展したのです。

応永9(1402)年、室町幕府全盛期、足利義満が権勢を誇っていたころのことでした。それは、年明け早々の1月17日、京都の西の空に大きな彗星が現れたことから始まりました。彗星は、光を強めたり弱めたりしながら、なかなか消えません。雪が降ったり強風が吹いたり、天気も荒れ模様だったようです。いったいどうなってしまうのでしょうか…?

『徒然草』を書いた兼好法師の何代か後、吉田兼敦(よしだかねあつ)という人の日記、『吉田家日次記(よしだけひなみき)』(★)には、そのときの顛末が、日を追ってくわしく書かれています。

兼敦も、初めて見るこの彗星に驚き、心配していましたが、この天変を不安に思っていたのは、もちろん彼だけではありません。朝廷に仕えていた安倍範信も、相談にやって来ます。範信は、平安時代の有名な陰陽師、安倍晴明の子孫で、星をみて世の中の動きを占う役を担っていました。そうこうしているうち、1月29日未明には、京都で地震まで起こります。記録に残るほど大きな地震ではなかったようですが、兼敦は、「天変地妖」が続く、と恐れおののいています。

そして2月5日、ようやく彗星は見えなくなりました。安倍範信らはすぐに、この彗星出現についての占い結果を、朝廷や幕府へ報告します。中国の古い記録や占いの本を参考に占われたその結果は、外国から攻め込まれる、洪水、政変、多くの死人が出る、など大変な内容でした。

この報告を受け、2月11日、幕府は東寺に祈禱を命じました(前回のお話)。次の文書は、その命令を東寺へと伝えたものです。

ホ函38号 広橋兼宣奉書
ホ函38号 「広橋兼宣奉書」応永9(1402)年2月11日

ところが、まさにその11日、どうしたことか、彗星は再び現れます。彗星が再び現れ、兼敦らも不安に思っている中、祈禱命令を受けた東寺は、祈禱の準備を始めました。東寺の僧たちによる会議の議事録「廿一口方評定引付」(応永9(1402)年2月13日条)には、幕府から祈禱が命じられたこと、祈禱の内容や方法は東寺側に一任されていることが記されています。そして17日から7日間、毎日読経と護摩の祈禱をおこなうことが決められました。

天地之部14号「廿一口方評定引付」応永9(1402)年2月13日条

そして、護摩の担当に指名された供僧には、次のような「廻請(かいじょう)」と呼ばれる文書がまわされました。今の回覧板のようなものです。

つ函2-1号 彗星祈祷修僧廻請
つ函2号-1 「彗星祈祷修僧廻請」応永9(1402)年2月日

2段に分けて書かれている部分をごらんください。上段には、護摩の祈祷の種類。下段には、「○○法印」「○○大僧都」など、それぞれの護摩を担当する供僧の名前。そして一番下には、「奉(うけたまわる)」という字が書かれています。指名された供僧は、承諾すればそのしるしに、「奉」と書き入れ、返事としたのです。

祈禱の準備が着々と進められるなか、彗星は少しずつ光を弱め、ちょうど祈禱が始められる予定だった17日、ようやく見えなくなりました。なんだかこわいですね!1ヶ月の間、2度にわたる彗星出現に地震…。人びとの恐れようが目に見えるようです。

そして彗星は見えなくなりましたが、17日から7日間、東寺は予定どおり、祈禱を実施します。その甲斐あってか…?不吉な占いの結果は無事覆され、何事もなく義満の権勢は続くこととなったのでした。

★「吉田家日次記(よしだけひなみき)」は、京都の吉田神社の吉田兼熙(かねひろ)とその子兼敦が折々に記した日記です。14世紀後半から15世紀初め、室町幕府3代将軍足利義満の全盛期の頃に書かれたもので、日々の天気から、神事や儀礼など、仕事の内容が細かく記録されています。

(松田:歴史資料課)