矢野荘を歩く その1―東寺はどこを支配していたのか―

来て、見て、体感して、ようやく実感がわくものってありますよね。荘園も同じです。東寺百合文書のなかには多くの荘園関係文書が残っていますが、文書の文面を読むだけではなかなか実感がわきません。現地を訪ね、くまなく歩き、その地に広がる風景を目に焼きつけることも大切なのです。そこで、今回から3話連続で、播磨国(現在の兵庫県の南西部)矢野荘の探訪の様子をお届けします。

矢野荘は相生(あいおい)市にあり、荘園の範囲は市の範囲とほぼ一致します(Googleマップ)。

荘園内は、「別名(べちみょう)」「例名西方(れいみょうにしかた)」「例名東方(れいみょうひがしかた)」「浦分(うらぶん)」の4つの地域に分かれていました。ひとつの荘園が複数の領主によって分割・支配されていたのです。

「別名」は南禅寺が支配していました。一方、「例名」「浦分」は歌人や画家として知られる藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)以降、その子孫が支配していました。ところが、永仁六(1298)年に「例名」は東西に二分されてしまいます。地頭の海老名氏が藤原氏にきちんと年貢を納めなかったので、「西方」を藤原氏が、「東方」を海老名氏がそれぞれ支配し、互いに干渉しないとすることで、問題の解決をはかったのでした。

では、東寺はいつから、どの地域を支配していたのでしょう?

中世には一つの土地に様々な権利が積み重なっていました。この矢野荘では、一番上の権利を持っていてその下の権利を左右することができたのが後宇多法皇です。後宇多法皇は藤原氏を見限ったようで、正和二(1313)年に「例名西方」を、文保元(1317)年に「例名内の重藤名(しげふじみょう)」と「浦分」を東寺に寄進しました。つまり、もともと藤原氏が支配していた「例名西方」「浦分」を、藤原氏に代わり東寺が支配するようになったというわけです。

さて、「別名」「例名西方」「例名東方」「浦分」は相生市内のどこにあたるのでしょうか。

こ函45号 後宇多上皇院宣
こ函45号「後宇多上皇院宣」文保元(1317)年3月18日

まず、比較的容易にわかる「浦分」からみていきましょう。上にあげた文書は、先ほど述べた文保元(1317)年の寄進状です。冒頭に「播磨国矢野例名内重藤名、難波・佐方等」とありますが、その「難波(那波、なば)」「佐方(さがた)」が浦分にあたります。那波・佐方ともに現在も地名として残っており、相生湾沿岸に位置します(Googleマップ)。この「浦分」ですが、地頭の海老名氏に奪われ、応永七(1400)年頃を境に東寺は年貢の取り立てをあきらめてしまいました。

続いて、「例名西方」「例名東方」「別名」です。次の文書がこの疑問に答えてくれます。

テ函8号 播磨国矢野荘例名実検取帳案
テ函8号「播磨国矢野荘例名実検取帳案」文保元(1317)年3月18日
み函8号-1 播磨国矢野荘例名東方地頭分下地中分々帳案
み函8号-1「播磨国矢野荘例名東方地頭分下地中分々帳案」正安元(1299)年12月14日

上にあげた文書は、前述の永仁六(1298)年の東西二分の結果を記した文書です。土地を折半するからには、互いの持ち分をはっきりさせておかなければいけません。藤原氏と海老名氏は検注(土地調査のこと)を行い、田畠の状況を記録しました。テ函8号文書には「例名」全域が、み函8号-1文書には「例名東方」の範囲が記されています。残念ながら「例名西方」の範囲を示す文書は残っていません。それでも、テ函8号文書の内容から、み函8号-1文書の内容を差し引くことで、「例名西方」の範囲を知ることができるのです。文書を見比べた結果、おおむね矢野川沿いに「例名」は東西に二分されていました(Googleマップ)。

一方、「別名」は少々複雑です。同じくテ函8号文書には、「例名」か、それとも「別名」か、その帰属をめぐって争いになっていた土地には注記がしてあります。特に「例名」と「別名」との境目周辺ではこうした争いが絶えなかったはずです。この注記の見える土地を抜き出せば、「例名」と「別名」との境目の目星がつきます。加えて、テ函8号文書には「例名」以外の土地は記されていません。よって、境目付近でテ函8号文書に見えない土地が「別名」の範囲ということになります。以上のことから、「別名」は現在の小河(おうご)周辺にあり(Googleマップ)、北と南は「例名西方」、東は「例名東方」と接していました。

最後におさらいをしましょう。「浦分」は相生湾周辺、「例名西方」「例名東方」「別名」は相生湾を除く地域で、おおむね矢野川を境に東が「例名東方」、西が「例名西方」にあたりますが、「例名西方」は小河周辺に広がる「別名」を間にはさみ、北部と南部に分かれていました。

(鍜治:歴史資料課)