裏を封(ふう)ず

紙の裏面を紙背(しはい)といいます。その紙背に文字が書かれているものがあります。今回は、「絵図に広がる世界」でご紹介した文書の紙背に注目してみましょう。

マ函16号 伊予国弓削島荘雑掌栄実地頭代左衛門尉佐房連署和与状
マ函16号「伊予国弓削島荘雑掌栄実地頭代左衛門尉佐房連署和与状」乾元2(1303)年正月18日

地頭の荘園侵略に困り果てた東寺は、土地を領家(東寺のこと)分と地頭分に分け、互いに干渉しないとすることで、問題の解決を図りました。上の文書は鎌倉時代後期のもので、東寺の雑掌(ざっしょう、現地で東寺のために年貢の取り立てなどにあたる人)と地頭代との間で、土地の分割に関する取り決めが交わされています。紙背の左隅と中央下に何やら文字が見えます。

左隅には「栄実和与状」と書かれています。栄実は東寺の雑掌で、和与は和解を意味します。つまり、文書の表側の要旨です。

一方、中央下には「為向後証文、所加封判也」の一文とともに、2名の官職・姓名・花押(かおう、サインのこと)が見えます。この2名は鎌倉幕府の奉行人で、裁判の実務などを担当していました。冒頭の一文は証明のことばで、東寺と地頭の和解を了承しますという意味です。

以上のことを踏まえると、土地の分割にともない東寺は、雑掌栄実と地頭代との間で交わされた取り決めを鎌倉幕府に報告し、承認を受けた後に文書の返却を受けたと考えることができます。

このように、和与状が法的に認められるためには和与状の紙背に承認の文言・署名・花押を得るとともに、和与を認めることを記した裁許状を幕府に発行してもうら必要がありました。

ヒ函28号「関東裁許状」乾元2(1303)年閏4月23日

上の文書はその裁許状ですが、実は合計3箇所、書き損じがあります。

まず、1行目の書き出しに「東大寺」とありますが、もちろん「東寺」の誤りです。「大」の字の左下に小さな「○」が書かれていますが、これは「大」の字の抹消を意味します。

続いて、9行目の末尾に「細場」、12行目の書き出しに「細以下」とありますが、これも「網場」・「網以下」の誤りです。

では、この誤字の場所をよく頭に入れて、紙背を見てみましょう。

ヒ函28号 関東裁許状
ヒ函28号「関東裁許状」乾元2(1303)年閏4月23日

3箇所ともに小さな花押が据えられています。現代の訂正印とほぼ役割は同じです。この花押は、前述の和与状の紙背に据えられていた花押の1つと一致します。おそらく、彼は書記役を務めていたのでしょう。

マ函16号
ヒ函28号

最後に、3つの小さな花押のほかに、紙継ぎ目のところにもう1つ別の人物の花押が見えます。北条久時の花押で、彼は鎌倉幕府の裁判機関である「引付」の長官の1人でした。今回の和与の承認は、彼の責任担当の下に行われたものと思われます。

(鍜治:歴史資料課)