後七日御修法とは毎年正月8日から14日まで宮中の真言院で行われた仏事のことで、玉体安穏や五穀豊穣などを祈りました。現在は東寺の灌頂院で行われています。前にも(→,→)取り上げましたが、承和2(835)年に初めて実施されて以来、1,000年の歴史の中で数々のドラマが生まれました。今回のお話では、16年越しに後七日御修法をやり遂げた「文観(弘真とも)」のエピソードをご紹介します。
上にあげた文書は、建武3(1336)年の「後七日御修法請僧交名(しょうそうきょうみょう)」です。後醍醐天皇の厚い信任を得て東寺一長者に上り詰めた「文観」は、中心となって後七日御修法を執り行う「大阿闍梨」の立場にありました。文観は文書の表側にこの修法に参加した僧の名前およびその役割を、裏側にはそのときの模様を書き記しています。これによると、建武3年の後七日御修法は異例の事態に陥っていました。
「十日、逆徒乱入京洛」とあるように、後醍醐天皇に反旗を翻して鎌倉を出発した足利尊氏が、正月10日に京都に到着したのです。身の危険を感じた後醍醐天皇と文観は、後七日御修法を急遽取り止め、比叡山に避難しました。後七日御修法の大阿闍梨を務めることは大変名誉なことでしたので、志半ばで京都を離れるしかなかった文観は悔しかったに違いありません。
結局、尊氏は後醍醐天皇に敗れ九州に敗走しますが、再び京都に攻め上り「北朝」を擁立します。一方、後醍醐天皇は吉野に下り「南朝」を樹立、文観もこれに従い吉野で活動を続けました。そして、建武3年の後七日御修法から16年、ついに文観に雪辱の機会が巡ってきたのです。
続いてあげた文書は、正平7(1352)年の「後七日御修法請僧交名」です。実はこの前年に、尊氏は対立していた弟の直義を討つため南朝と和睦し、京都を出発します。室町幕府はこの和睦が破れる正平7年閏2月まで北朝年号の「観応」を用いず、南朝年号の「正平」を使用しました。北朝に代わり天下を握った南朝は、正平7年の後七日御修法の大阿闍梨に文観を指名したのです。文観は喜びに打ち震えたことでしょう。
16年前の後七日御修法を振り返り、文観は「建武三年之古、雖恨為大乱之時代」と綴っています。加えて、実は建武3年には「後七日御修法請僧交名」を書くことができず、正平7年になって書き継ぐに至ったことを打ち明けています。
雪辱を果たした文観。このとき、文観は80歳を迎えようとしていました。
(鍜治 利雄:資料課)