東寺百合文書の「織田信長禁制」

戦国時代の東寺百合文書の中でよく知られるものに、永禄11年(1568)9月日の日付けをもつ織田信長禁制があります(せ函武家御教書並達86号)。この文書がよく知られているのは、その形状や内容ではなく、戦国武将として人気のある織田信長が発行したものという理由からです。信長の歩みの中で説明すると、信長が室町幕府第15代将軍になる足利義昭を奉じて入京した時のものとして知られています。東寺に残る信長文書の唯一の正文であること、信長の「天下布武」印のあることなどから、展示会によく出品され、図版が図書類にもよく紹介されます。

せ函武家御教書並達86号 織田信長禁制
せ函武家御教書並達86号「織田信長禁制」永禄11(1568)年9月日

同じ日付けをもつ禁制は、東寺だけでなく多くのところに出されています。入京以前の近江国2ヶ所をはじめ、山城国で18ヶ所、摂津国で1ヶ所の文書が残っています。山城国では、洛中と周辺の社寺が12ヶ所(大徳寺、南禅寺など)、洛中と周辺の町場・村が2ヶ所(上京、天部)、山城国内の町場・村が4ヶ所(吉田、大山崎など)となります。

禁制の内容は、軍勢濫妨・狼藉のこと、陣取・放火のこと、竹木伐採のことなど三か条で、寄宿についても付け加えられています。書き留め文言には「仍執達如件」とし、「弾正忠」の名前で「天下布武」の朱印(単郭、楕円形)を押します。弾正忠は、信長がこの年の8月から尾張守に替えて名乗った名前です。東寺のものと他所への禁制とを比較すると、本能寺、妙顕寺の禁制には東寺と同様に寄宿の禁が含まれ、賀茂社、清水寺では東寺とは異なり山林に対する文言があります。大山崎では矢銭・兵糧米についての内容が含まれ、上京、吉田郷では非分を申し懸けないことが書かれています。このように、同種の禁制でも、充て所に応じて内容を変えていることがわかります。

信長の一生を記録した『信長公記』によると、永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じて岐阜を出発し、近江の六角氏を破った後に、9月28日に山城国に入りました。信長は東福寺に着陣し、義昭は清水寺に入っています。翌29日には乙訓郡寺戸に陣を移します。禁制はその時期に出されたことになります。

東寺百合文書には、信長以後も元亀元年(1570)9月日付けの朝倉景健禁制があります(せ函武家御教書並達88号)。この禁制は五か条からなるもので、景健の花押があります。同年月の朝倉景健禁制は清水寺にも出されていて、清水寺には同年月の浅井長政禁制もあります。同年月の浅井長政禁制は、大徳寺並門前にも出されています。元亀元年6月に織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が戦った姉川の合戦の後、9月に浅井・朝倉軍は近江の西部を南下して滋賀郡にあった織田軍の宇佐山城を攻め(志賀の陣)、その勢いで京都に入っていて、禁制はその時に出されたものです。なお、朝倉景健は越前の朝倉氏の一族の家臣で、姉川の合戦、志賀の陣では総大将をしていました。

せ函武家御教書並達88号 朝倉景健禁制
せ函武家御教書並達88号「朝倉景健禁制」元亀元(1570)年9月日

近年、戦国時代に関する研究が進展しています。「天下布武」印の天下は、信長段階では日本全体を指すのではなく、京都を中心とする畿内・近国を指す意味に使われることが明らかにされました。また、永禄11年の上洛は義昭政権下の一武将の立場として義昭を奉じて入京した年であったことが論じられています。

これまでに見てきた諸点も含め、さまざまな視点から探究することで、東寺百合文書の信長禁制は更なる価値を見出せると言えましょう。

(参考文献)

  • 奥野高広著『増訂 織田信長文書の研究』、吉川弘文館、1988年
  • 神田千里『織田信長』、ちくま新書、2014年
  • 天野忠幸『三好一族と織田信長』、戎光祥出版、2016年

(資料課 大塚活美)