“東寺百合文書の「織田信長禁制」” では、永禄11(1568)年9月日の日付をもつ織田信長禁制 (せ函 武家御教書並達 86)を取り上げ、信長の上洛について考えてみました。このほかにも東寺には多くの禁制が伝わっています。 永禄8(1565)年10月11日の日付をもつ一乗院覚慶禁制 (せ函 武家御教書並達 85)は、織田信長禁制の3年前のものです。この年5月19日、13代将軍足利義輝が三好三人衆、松永久秀らにより殺害され、その時に南都興福寺の一乗院門跡にいた弟の覚慶(後の足利義昭)は松永久秀により幽閉されました。覚慶は、7月28日の夜に一色藤長、細川藤孝らの協力により南都から脱出し、近江国甲賀郡和田に逃れました。その後11月21日に野洲郡矢島の少林寺に移ります。禁制はこの間に、飯川信堅、細川藤孝、一色藤長らの名前で出されました。
覚慶は永禄9年2月に還俗して「義秋」と名を改め、永禄10年9月に越前に居を移します。永禄11年4月には元服して「義昭」に改め、7月に岐阜の織田信長のところに移ります。そして、9月に織田軍とともに上洛を果たします。その時に東寺など洛中の寺社に出されたのが織田信長禁制 (せ函 武家御教書並達 86)でした。
東寺には、東寺百合文書とは別に東寺文書と呼ばれる文書群があります。その中に、天正10(1582)年6月日の日付をもつ織田信孝禁制があります。この月は2日に本能寺の変が発生し、明智光秀により織田信長が殺害されました。その時、信長の三男にあたる織田信孝は四国攻めの総大将として大坂にいました。13日には山城・摂津の国境にあたる大山崎において山崎合戦があり、織田信孝方(摂津軍・羽柴秀吉軍等)が明智方に勝ち、京都を含む山城国は織田氏の支配下に戻ります。東寺の織田信孝禁制は、おそらくこの時点で獲得されたものと思われます。
6月に山城国内に出された禁制を見ると、6月3日に明智光秀が大山崎に禁制を出します(離宮八幡宮文書)。光秀は、7日に上賀茂・貴船に(賀茂別雷神社文書)、9日に大徳寺・門前にも禁制を出しました(大徳寺文書)。織田信孝は6月日付けで大山崎に(離宮八幡宮文書。6月7日付け丹羽長秀の添え状により6月7日付けと推測される)、同じく6月日付けで東寺、東福寺に禁制を出します(東寺文書、東福寺文書)。清水寺には7月日付けで禁制を出しています(清水寺文書)。このような経過を踏まえると、東寺にも3日から9日にかけての頃に明智光秀禁制が出されていたかもわかりません。
東寺に出された織田信孝禁制は、東寺とともに八条境内遍照院宛てに出されたものです。条文は3ヶ条で、軍勢の狼藉の禁、陣取の禁とともに、「田畠立毛刈取」の禁止がうたわれています。東寺・遍照院内に田畠はないことから、無用の条文かもわかりません。ただし、付けたりとして矢銭・兵糧米を相懸けることが加えられています。このように、多くの禁制はいろいろなところに対応できるように予め条文が作られていて、要望するところに応じた宛所が書き加えられたと考えられます。
(参考文献)
- 上島有『東寺文書聚英』図版篇、解説文、同朋舎、1985年
- 藤田達生・福島克彦編『史料で読む戦国史 明智光秀』、八木書店、2015年
- 久野雅司『足利義昭と織田信長』、戎光祥出版、2017年
大塚活美(資料課)