慎重論の中での府購入

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (10),「京都新聞」2016年8月27日付24面記事を転載

前回は、京都府の東寺百合文書購入当初の全体の「晴れ姿」をご覧いれましたが、今回はそのうちの「ケ函」と「テ函」の2箱を掲載しています。中世そのままの百合文書でいかにも迫力のある写真です。残念ながら、もはや百合文書にはこのような素晴らしい姿は全くみられませんが、百合文書の整理はこのような状態から始まったのです。

右:「ケ函」に入っていた東寺百合文書の一部
左:「テ函」に入っていた文書

百合文書の購入には、当時の京都府議会の一部に根強い慎重論ないしは反対論があったため、府として、その扱いには神経質過ぎると思われるほど気を遣いました。整理を始めた段階では、非常に貴重なものだが、まだ確実な目録もないということで、整理には職員もあまり出入りをしない3階の一室があてられ、資料館の日常業務とは全く関係なく、別天地で専念できました。たまに、マスコミや文化財関係の人が取材などに訪れるほかは、外部とはほぼ完全に遮断された形で整理を進めました。

ただ、購入時の経緯もあって、当初は年に2、3度、府議会議員の視察がありました。ちょうど、虫喰いの文書と格闘している光景をみた議員が言い出したことではないかと思います。府議会筋ではよく「紙屑(かみくず)百箱」といわれたものでした。

私も大変気になったので、府議会の議事録を調べてみました。府議会の議事録は本会議の分だけしかありませんが、たしかに購入そのものを審議した時から、慎重論は根強くみられましたが、「紙屑百箱」は探すことはできませんでした。恐らく、委員会の場か議員個人が言ったことではないかと思います。

このような慎重論や反対論があった中で、購入した府の判断は特記すべきものだろうと思います。この時には、府だけではなく、内外のいくつかの研究機関が購入を検討していることを聞きました。それほど価値のあるのが百箱の「紙屑」なのです。

このような状況のなか、府の動きは実に迅速でした。府教委文化財保護課長の荒尾利就氏は、国史学を専攻したこともあって、知事をはじめ府の幹部に事情を詳しく説明、購入の了解をとりつけました。その間の具体的な話はいろいろと聞いておりますが、荒尾氏の手腕は大したもので、私だったら到底まねもできなかったと感じ入ったものです。これは、くしくもちょうど50年前の1966(昭和41)年のことですが、その年9月、府の事前調査で百合文書を手にしたのが、私の百合文書との出合いでした。

文書をはじめとする貴重な文化遺産は、本来の所蔵者の手元にあるのが理想的な姿です。しかし、いろんな事情で、他に移さなければならないときには、地元にというのが大原則です。関係のない他府県に行ってしまったら、文書自体がたんなる文化財として「根なし草」になってしまいます。生まれ育った地元にあってこそ、京都に根づいた「生きた文化遺産」と言えます。この点で、多くの慎重論・反対論があったにもかかわらず、毅然として購入の手続きを進めた府の見識は高く評価されるべきです。

その後、百合文書は重要文化財、さらに国宝に指定され、今回はユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されました。世界人類の貴重なアーカイブズと認められたのは本当に喜ばしいことです。

(上島有:京都府立総合資料館元古文書課長・摂南大学名誉教授)


東寺百合文書から 永徳元年12月12日 足利義満御判御教書

せ函武家御教書並達52号「足利義満御判御教書」永徳元(1381)年12月12日

今回は、北山殿足利義満の花押についてお話しします。義満の花押は大きく分けて二つあります。一つは永和3(1377)年11月21日の花押です(東寺文書、新聞には花押の写真を掲載)。これは武家様花押といって応安5(1372)年11月、15歳となった将軍義満が使い始めたもので、尊氏や直義の花押と同じく、足利氏伝統の「義」の字を象形化したものです。 

一方、文書の写真は天下太平の祈禱を東寺に命じたものですが、花押は全く違います。これを公家様花押といいます。義満は永徳元(1381)年7月、24歳の若さで内大臣となったのです。義満は武家というだけでなく、正式に上級公家としても認められたことになります。これを機に義満は公家様花押を使うようになりました。 

写真は義満が内大臣に任じられた5カ月後の文書ですから、現存する義満の最初の公家様花押と考えられます。花押を見ると、あちこちに殴り書きしたようで何のことだかよく分かりません。しかし、この筆順をみますと「鹿」のようです。どうも、義満は「鹿」の字を好んだようです。「中原に鹿を逐う」の言葉があるように、鹿は帝位・国王を象徴します。義満の関係する寺院には嵯峨の鹿王院や鹿苑寺(金閣)があり、鹿苑院殿と称せられました。最終的には、義満は第1回の足利義満自筆仏舎利奉請状でみましたように、自ら「日本国王」をもって任じています。

義満の公家様花押は、一般には「義」を崩したものと言われています。これは「康富記(やすとみき)」の記事によるものです。「康富記」は室町時代中ごろ、事務官僚として朝廷に仕えた中原康富の日記ですから、これほど信ぴょう性の高いものはありません。そこで現在までそれに基づいて広くそう考えられてきました。しかし、私が多数の足利氏の花押の筆順を検討した結果、義満の初期の武家様花押は、足利氏伝来の「義」、公家様花押は「鹿」を象形化したと考えて間違いないと思います。
義満は早くも24歳にして、暗に「日本国王」たることを志向していたといえます。

(聞き手・仲屋聡:京都新聞記者)