廿一口方(にじゅういっくかた)・十八口方(じゅうはっくかた)・学衆方(がくしゅかた)・鎮守八幡宮方(ちんじゅはちまんぐうかた)・最勝光院方(さいしょうこういんかた)・宝荘厳院方(ほうしょうごういんかた)・不動堂方(ふどうどうかた)・植松方(うえまつかた)など、東寺には様々な僧侶の組織があります。
組織の人員は、廿一口方が供僧一臈(いちろう(最上位の僧侶のこと))を含む二十一人の供僧で構成されているほか、学衆方は二人の学頭(がくとう(学事を統括する僧侶のこと))を含む十六人の学衆、鎮守八幡宮方は三十人の鎮守八幡宮供僧というように組織ごとに異なり、一人の僧が別の組織に重複して所属する場合もありました。
そのなかでも、廿一口方は最も重要な組織として位置付けられています。
各組織が個別に「評定(ひょうじょう)」と呼ばれる会議を行い、「引付(ひきつけ)」という議事録を毎年作成して保管しました。「引付」は、後日の参考、または証拠とするため、議事の内容を日記形式で記録されています。
評定には、全員出席することが基本原則でしたが、理由があれば欠席も認められていました。そのため、毎回の議事録の冒頭部分には出欠状況がわかるように、出席した僧の名前が明記されています。会議は正月5日に始まって、12月の次期奉行(次の実務担当)の決定をもって終了しますが、鎮守方評定だけは7月に始まり、翌年6月まで行われました。
各組織の運営は、所属している僧のなかから毎年投票で選ばれる年預(ねんよ。奉行ともいう)が実務を担当しました。ちなみに、廿一口方供僧の年預は他の組織の年預よりも格上にあり、東寺供僧の代表として「惣年預」とも呼ばれました。
年預の重要な仕事の一つに引付の執筆があります。議事の内容が詳細に書かれている引付があれば、内容を省略しているものもあり、執筆を担当した年預によって内容に差のあったことがうかがえます。
南北朝時代から室町時代にかけてはどの組織も引付の内容が充実しています。
たとえば、備中国新見荘の代官として東寺から派遣された祐清上人が殺害された事件に関する議事録が記載されている「最勝光院方評定引付」(寛正3(1462)年)は、29紙にもわたります。(け函13号)
ところが、同じ「最勝光院方評定引付」でも、永禄12(1569)年の引付はわずか5紙で、9月10日付けの議事録が簡潔に記録されているのみです。ほかにも、戦国時代になると一年分が4、5紙程度にまで紙数が減ってしまい、なかには全く内容のないものもみられるなど、書かれた時代によっても引付の性格は大きく異なります。
次に、いくつかの引付を事例に、どのような議題が会議に挙がったのかをみていきましょう。
文明15年「鎮守八幡宮供僧評定引付」(ワ函78号)には、室町幕府8代将軍・足利義政が造営した東山山荘(のちの銀閣寺)に関する記録があります。同年7月27日条によると、東山山荘御普請料を負担する室町幕府奉行人連署奉書と、室町時代の武将で侍所所司代・浦上則宗の副状が書写されています。
「廿一口供僧評定引付」文明15(1483)年7月27日条(天地之部44号)にも同様の記録が残っています。
文明18(1486)年8月、徳政の発布を求めて蜂起した土一揆が東寺に立て籠もり、退却に際して火を放ちます。この時、金堂・講堂・鐘楼・鎮守八幡宮など、主な伽藍が炎上した様子や復旧工事に関する議事内容を、同年9月18日条の「廿一口方供僧評定引付」(ワ函79号)のなかに確認することができます。
また、「廿一口方供僧評定引付」(天地之部47号)永正7(1510)年2月20日条には、室町幕府から「御敵退治」の祈祷を命じる14日付けの奉行人奉書が到来し、会議の場において不動堂で7日間の護摩と鎮守八幡宮で大般若経を転読することが決定しています。「御敵退治」とは、将軍足利義尹が前将軍足利義澄を討伐することを指しています。
このように、引付には議題に挙がった各種法会、荘園の管理・支配に関する事項のほか、当時の政治や社会、各組織の人事についての記事もみられるなど、東寺や中世社会をうかがい知ることができる歴史資料として大変貴重です。
(伊藤実矩:資料課)