平安時代末期以降、各地で定期市が開かれるようになります。月に3回開かれる定期市を「三斎市(さんさいいち)」、月に6回開かれる定期市を「六斎市」といいます。平安時代末期~鎌倉時代にかけては三斎市が一般的でしたが、南北朝時代になると六斎市を開く地域が出てきました。
東寺領として有名な備中国新見荘(現・岡山県新見市)でも三斎市が開かれていました。今回のお話では、三斎市が開かれた新見荘の「市庭(いちば、市場のこと)」について取り上げたいと思います。
地図の1は、新見市の観光名所のひとつである「新見御殿町(にいみごでんまち)」です。元禄10(1697)年に新見藩が新設されたときに、藩邸を中心に新見御殿町が開かれました。現在、新見御殿町の一角に「三日市」という地名が残っています。これは市庭があったことを示す地名です。毎月「3」の付く日(3日、13日、23日)に三斎市が開かれたので、この地域は三日市と呼ばれるようになりました。遅くとも1280年頃には「三日市庭」が開かれていたと考えられています。
上にあげた文書の中央下付近をご覧ください。「十一月廿三日和市分」「十二月三日和市分」という文字が見えます。和市(わし)とは中世の市場での売買価格や相場という意味で、お米を売り、換金したことが読み取れます。11月23日と12月3日にお米の売買が行われたことから、確かに毎月「3」の付く日に市庭が開かれていたことがわかります。
以前ご紹介した通り、寛正2(1461)年に東寺は横暴を働く代官の安富氏を罷免します。罷免にあたり、現地の状況を把握するために、東寺は乗円祐深と乗観祐成という2名の僧を新見荘に派遣しました。「え函28号」は乗円祐深と乗観祐成が東寺に提出した報告書です。文書の後半部で三日市庭について触れています。
「一、当庄に市は之有、半分地頭、半分御領、国衙・他国守護方入合」という文面から、三日市庭は領家方の東寺と地頭方の禅仏寺が共同で支配しており、備中国の国司や周辺諸国の守護の支配地など、新見荘の住民だけではなく他所からも人が集まり、にぎわいを見せていたことがわかります。三日市は高梁川と熊谷川(くまたにがわ)の合流点付近にありますが、熊谷川沿いに備中国の「国衙政所」(国司の支配地の経営拠点)とつながっており、また高梁川沿いに備中国の「守護所」(守護が設けた役所)にも出ることができました。つまり、三日市庭は交通の要所に置かれた規模の大きい市庭だったのです。
冒頭の写真は三日市の横を流れる高梁川の現在の様子です。そこから少し歩いたところに、三日市庭が開かれていたことを示す石碑と案内板が建てられています。
三日市庭以外にも、新見荘にはローカルな市庭がいくつか開かれていました。その中でも、地頭方が支配していた「二日市庭」について見ていきましょう。
後ろから2行目に「二日市庭井村」という文字が見えます。井村とあるように、地図の2の上市井村(かみいちいむら)で、地頭方は毎月「2」の付く日(2日、12日、22日)に市庭を開いていました。
「4」の付く日や「8」の付く日ではなく、「2」の付く日に市庭を開いたのには理由がありました。地頭方は効率よく利益を生み出すために、まず二日市庭で物資を集め、翌日の三日市庭でそれを売りに出したのです。三日市庭は二日市庭よりも規模が大きく、領家方や新見荘以外の人物とも取引をできる機会があったので、より多くの収益が見込めました。二日市庭で集めた物資は舟に積み込まれ、高梁川を南に下り、三日市庭に運ばれたと考えられています。
この二日市庭ですが、地頭方の支配の拠点である「地頭方の政所」(地図の4)の目と鼻の先にありました。地頭方は支配の拠点と経済・流通の中心地を同じ場所に設けたのです。一方で、領家方の東寺はそういった方針を取らず、「領家方の政所」(地図の3)付近で市庭が開かれることはありませんでした。
次回は新見荘で非業の死を遂げた「祐清」のゆかりの地をご紹介します。
(鍜治 利雄:資料課)