200ヵ所もの寄進地

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (14),
「京都新聞」2016年12月9日付26面記事を転載

前回は、1100年前の七条令解にみえる左京七条一坊十五町西一行北四五六七門(現京都市下京区櫛笥通花屋町下ル)の土地が次々に転売され、 500年後の1396(応永3)年に、東寺に寄進されてようやく安住できたことをお話ししました。

下の「東寺百合文書から」に挙げた、室町時代の1478(文明10)年6月の東寺領左京散在屋地幷田畠等注文をご覧ください。
「壹所 …」と続く6行目に「壹所 七条坊門櫛笥以東北頬(つら)西角」とみえます。これが前回の七条令解で取り上げた左京七条一坊十五町の土地に当たります。

七条坊門通とは、現在の下京区にある正面通のことです。七条大宮を上がると、西側で2筋目の東西の通りが正面通です。西に入ると、南側に龍谷大付属平安中・高のグラウンドがあります。
その西側の南北に延びる通りが櫛笥通です。この交差点の東北角で、知真保育園がある場所が、七条令解にいう左京七条一坊十五町の地であり、室町時代に七条坊門櫛笥と記された土地に当たります。

現在は保育園が建つ、七条令解で左京七条一坊十五町と記されていた土地(京都市下京区)
※赤○が保育園の場所。新聞では写真を掲載

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※この画像はCC-BYでの提供ではありません。

鎌倉時代になると、東寺の西院に弘法大師像を安置する御影堂ができ、庶民による大師信仰が広く行われるようになります。それに伴って、一段・二段という零細な土地が寄進されます。
室町時代の文明10年には、洛中をはじめ紀伊郡・乙訓郡の土地が200カ所も寄進されています。

その1カ所が、912(延喜12)年の七条令解にみえる左京七条一坊十五町の土地です。
この文書は、平安京に関する最古の証文というだけでなく、律令政府の土地売買に関する最も整った文書として早くから注目されてきました。
我が国を代表的する数多くの碩学(せきがく)が、この七条令解を大きく取り上げていますが、なぜ東寺百合文書として残ったのかは、まったくの謎でした。
私も早くから大きな懸案としてきた重要な問題でありました。

何しろ200カ所もの土地の記録です。1カ所に5通の文書が残っているとしても(実際はもっと多いと思います)、千通もの文書を「しらみつぶし」に調べねばなりません。
しかも、平安時代に左京七条一坊十五町と言っていた土地は、室町時代に七条坊門櫛笥という表示になっています。平安京の条坊図において全て両者を対比しなければなりません。
本当に気が遠くなるような困難な仕事をやり遂げたのが、京都府立総合資料館の職員だった橋本初子氏でした。呼び方のまったく異なる二つの土地が、一つに結びついたのです。この成果を見せられた時にはしばし、絶句しました。

京都には大極殿跡や聚楽第跡など有名な遺跡が沢山あり、新しい発掘成果も次々と発表されています。しかし、現在は知真保育園がある地が1100年もさかのぼることができ、
その後の経過も大体跡付けられることを、多くの方はご存じないかもしれません。現在の場所が、すべてこのような長い歴史に育まれた土地だと考え、京都の奥深い伝統に思いを致していただければ幸いです。

東寺百合文書から 東寺領左京散在屋地并田畠等注文

ま函14号-3「東寺領左京散在屋地并田畠等注文」文明10(1478)年6月日

今回は、本文と関係がある文書を取り上げます。鎌倉時代以降、大師信仰の進展とともに、一段・二段という零細な土地が庶民から東寺に寄進されます。具体的な模様を伝えるのがこの文書です。
写真は巻頭と巻末ですが、全体で4紙、約1・5メートルに及び、左京にあった東寺の全ての散在所領44ヵ所が記載されています。

1467(応仁元)年正月に始まった応仁・文明の大乱は、京都の大半を焦土と化し、1477(文明9)年にほぼ終結をみます。この間、全国各地の荘園や京都の所領は、多くの武士などに占拠されていましたが、 将軍足利義政は翌年6月、全国の荘園と洛中洛外のすべての所領を東寺に返付するように命じております。

この時に、東寺が左京の所領として幕府に申請したのが写真の文書です。同様に右京の散在所領と、寺辺水田、紀伊郡、乙訓郡の各所領の目録も作成され、文明10年当時の東寺の所領計209ヵ所を完全に知ることができます。本当に貴重な史料です。

寺辺水田は少し説明が必要かと思います。東寺がある左京九条一坊の水田で、この地は早くから「大師勅給の地」「東寺境内」と呼ばれた特別な土地で、左京にありながら単独の目録が作成されました。

散在所領の寄進は、1244(寛元2)年正月の比丘尼浄阿による私領田二町余の寄進に始まると言われています。それから約200年後の文明10年に200ヵ所に増えたのですから、当時の庶民間における大師信仰の広さ、そして根深さの一端を知る事ができます。
本文で取り上げた左京七条一坊十五町すなわち七条坊門櫛笥の土地も、このような理由で東寺に寄進され、20通以上の関係文書が百合文書として残ったのであります。

(聞き手・芦田恭彦)