再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (13),「京都新聞」2016年11月25日付20面記事を転載
写真をご覧ください。古めかしくて、いかにも由緒ありげな文書です。今回はこの文書のドラマを紹介します。
平安時代中末期の993(正暦4)年に、平安京内の左京七条一坊十五町西一行北四五六七門(現京都市下京区櫛笥通花屋町下ル)の土地を売り渡した証文(以下、売券)であります。
奈良・平安時代は、土地の売買に政府の許可が必要でした。左京七条の行政の責任者たる七条令に申請します。売主・買主それぞれの間違いないという証明が必要です。
写真の「正暦四年六月廿日」以下の証判に、何人かの関係者が署名しております。受け取った七条令はさらに、当時の平安京で左京の行政責任者である左京職に承認を求めます。その承認があって初めて土地の売買が成立したことになります。
この土地に関する売券は、現在20通ほど残っています。一番古いのが912(延喜12)年7月17日で、天理図書館所蔵となっています。
左京職の承認まで正式な手続きを経ており、大きく2紙にわたって書かれた、堂々たる律令政府の公文書という風格を示しています。平安京の町に関して、現存する最古の証文として特に有名です。
その後、923(延長7)年、949(天暦3)年、979(天元2)年と順次転売され、写真の文書が5番目となります。最初に「七条令解」と書き、年月日の下に「令」として七条令が署名して、
正式の手続きを取ることになりますが、実際は省略されて署名しておりません。もはや正式な律令政府の公文書ではなく、売主と買主の証判で成立した中世の売券に近いものになっています。
律令政府の最後の輝きを示した時代として、よく「延喜・天暦の治」と言われます。それは延喜12年の文書がきっちりとした政府の公文書ということから確認できるかと思います。
それがわずか四、五十年の間に形骸化し、もはや正式な政府の許可申請がおこなわれなかった様子が、写真の文書でよく知ることができます。
写真の文書で重要なのは、書かれた内容だけではありません。その後、この土地は順次持ち主を替えていきます。幸い、関係する文書が次々と貼り継がれて20通ほど残っております。
最後は室町時代の1396(応永3)年10月21日、この土地が東寺に寄進され、文書も一括して東寺に納められることになります。
これらの文書は、一番古い延喜12年の文書が作成されてから500年にわたって京都の市井を20ヵ所以上もさまよい歩いて、応永3年にやっと安住の地を得たことになります。
作成されてから、京都の町の中で源平の争乱を目の当たりに見て焼失寸前であったかもしれません。また、南北朝の動乱もどこかで経験して、やっと東寺に落ち着いたということになります。
皆さんは展覧会などで、この文書を目にすることもあろうかと思います。文字をお読みになるのも大事なことですが、少し離れて、じっくりこの文書の歴史に思いをはせて、
「長い間、ご苦労さんだったなあ」と一言声を掛けてもらえるとありがたいことかと思います。
東寺百合文書から 山城国桂川用水差図案
もはや農村における水争いは完全に昔話になってしまいました。私は三重県・伊勢の農村に育ち、戦前の小中学校のころ、身近な所で刃傷沙汰にまで及んだ水争いの話をよく聞いたものでした。
この1496(明応5)年に作成された「山城国桂川用水差図案」は、中世の水争いの模様を示すものです。京都の上桂から大山崎までの西岡一帯は、ごく最近まで豊かな農村地帯で、かんがい用水の確保は死活問題でした。
その模様は、京都府立総合資料館の東寺百合文書WEBの「百合百話」の「水を求めて in 桂川」で詳しく紹介されています。
真ん中を大きく流れているのが桂川です。西岸にこの時の相論の当事者である上久世・下久世・大藪・牛瀬・築山の西岡五ヵ庄が描かれています。
東岸にも相論の当事者である石清水八幡宮領西八条西庄(現在の京都市南区)などが描かれ、中世でも豊沃な田園地帯だったと想像されます。
同じく「百合百話」の「東寺百合文書掲載利用数ランキング」によると、出版物に写真が掲載されたトップがこの文書のこと。中世の農民・農村の実際を示す貴重な史料といえますが、実は廃棄寸前でした。
前回、14通の寺内落書が1887(明治20)年の東寺文書調査で「除去」され、廃棄寸前だったと紹介しましたが、同じ調査で「除去」された文書でした。
1967(昭和42)年に、資料館で百合文書の整理を始めて間もない頃だったと思います。「除去」分から見つけて、職員一同跳び上がって喜んだことを覚えています。
この文書は早くから有名で、江戸時代の写本「東寺古文零聚」に書写されています。その後、所在不明となった謎の文書の一つでした。偶然の発見は、まさに大きな「宝物」を探し当てたといえます。
100年近く函のそこで首を長くして出番を待っていたのです。忘れることのできない「秘話」の一つです。
(聞き手・芦田恭彦)