道路がいつのまにか畑や田んぼになっていた…!?しかも都会のまん中で!今の日本ではちょっとありえないことですが、中世の都、平安京では、そんなびっくりするようなことが、しばしば起こっていました。最近流行の、ビルの屋上に庭園や菜園をつくる屋上緑化のようなものでしょうか?いいえ、それとはちょっと違います。
「碁盤の目」として知られる平安京の道路。区画が定められ、まっすぐに規則正しく整備されていたはずですが…いったいどういうことなのでしょう…?次の文書は、その様子を図にしたものです。
「遍照心院」というお寺の近くにある「巷所(こうしょ)」の図です。この「巷所」ということばこそ、平安京のなかの道路の一部が耕され、田や畑、宅地にされてしまった場所のことをさしています。ここは東寺の少し北、現在の京都水族館の南あたりです。東西にのびる八条通と大宮通が交わるところでは、北東からも南西からも巷所が広がってきました。そのため、広くまっすぐだった八条通は、途中で曲がった細い道になってしまったのです。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか?まずは、ここ平安京の道路事情をみておきましょう。平安京の道路というと、「碁盤の目」として有名です。「大路」や「小路」と呼ばれる整備された道には、それぞれ道幅の規定がありました。また、家屋などの敷地と分けるための垣、犬走(いぬばしり)・犬行(いぬゆき)と呼ばれる細い道、溝も両脇につけるなど、細かく決められていました。大路の幅は8丈(24m)、小路は4丈(12m)などと定められていましたが、最も広い道路の朱雀大路は、なんと道幅28丈(85m弱)もありました!
今の一般的な国道の幅は、1車線が3m前後。片側2車線に歩道などがついたとして、およそ20mです。大路の幅は、今の国道とほとんど変わらないようですね。しかし、今と違って、多くの車がすごいスピードで通るわけでもなければ、コンクリートで舗装されているわけでもありません。広い道路の隅っこでなにかごそごそしていても、さほどたいしたことではなかったのかもしれません。
とは言え、最初は隅っこだけだったはずが、だんだん広がってくると…やはり問題になってくるのです。朝廷ももちろん巷所をつくることを禁止しましたが、人びとはなかなか聞き入れません。平安京のあちこちで、こういった巷所がつくられ始めました。
稲や麦…、道の両脇につくられた溝のあたりには、ちょうど地面が湿っているのをいいことに、い草が栽培されることも多かったようです。
東寺周辺は当時、洛中への玄関口として、通行人や参詣客で大変にぎわっていました。そんな場所で、道幅の半分以上が耕され、畑仕事がおこなわれていたりすると、やはり通りづらく通行の妨げにもなったのでしょう。最初にあげた文書が作られたのも、近くのお寺、遍照心院からの訴えがあったからでした。
京の都のちょっとややこしい?道路事情。続きは次回、おたのしみに…。
(松田:歴史資料課)