矢野荘を歩く その3(終)―信仰の拠点「大避(おおさけ)神社」―

同じ地域に住む人々が、その地を守護する神様や仏様を祀り、ときには神社やお寺に集ってお祭りに興じる姿は、日本各地でよく目にする伝統的な風景とひとつといえるでしょう。 矢野荘も例外ではなく、今でも集落や地域ごとに氏神を祀っています。なかでも、現在の矢野川と小河(おうご)川との合流点の西南にある「大避神社」 (Googleマップ) は、矢野荘全体を守護する荘鎮守として人々の信仰を集めてきました。

下の文書は、矢野荘例名(れいみょう)にある重藤名(しげふじみょう)の領主である寺田範兼(のりかね)が子の範長(のりなが)に、正和二(1313)年に宛てた譲状です。譲り与えるものを書き上げている最初のところに、「矢野庄重藤名地頭職・田畠・山林・例名公文職」とともに、「大僻宮別当・神主・祝師」が見えます。寺田氏は土地の領主であるとともに、大避神社の役職を独占し、儀式や祭礼をとり行う立場にありました。

せ函武家御教書並達8号 播磨国矢野荘重藤名地頭寺田範兼譲状
せ函武家御教書並達8号「播磨国矢野荘重藤名地頭寺田範兼譲状」正和2(1313)年9月12日

それからほどなくして事態は一変します。その1でも触れましたが、後宇多法皇が東寺に重藤名を寄進し、寺田氏の支配が否定されてしまったからです。実力行使に出た寺田氏は東寺と2度戦を交えるも敗北。寺田氏の所領は東寺に没収されてしまいました。次の文書をご覧ください。「寺敵寺田法然与党等」とあって、東寺は寺田氏やその仲間を寺敵と見なし、彼らの所領を没収したのちに合戦で手柄のあったものに与えています。

み函17号-2 播磨国矢野荘例名西方有光名々主職宛行状案
み函17号-2「播磨国矢野荘例名西方有光名々主職宛行状案」元亨3(1323)年10月日

その後、寺田氏は大避神社の役職の地位も失ってしまいました。寺田氏に代わり役職の任命権を握ったのは東寺です。大避神社の儀式や祭礼をとり行うことで、信仰を寄せる人々への支配を強めようとする思惑があったのかもしれませんね。

(鍜治:歴史資料課)