整備された「碁盤の目」の都として有名な平安京。しかし、実はそのあちこちで、道路がいつのまにか田や畑にされる、なんてことがしばしば起こっていました。前回の「道路が畑に…!? その1」では、東寺の少し北、東西にのびる八条通と大宮通が交わるあたりでも、道路が耕され、どんどん巷所が広がってきた様子をご紹介しました。
しかし、近くのお寺、遍照心院が、広がりつつある巷所を見かね、とうとう東寺へ訴え始めます。 東寺はそれにどう対応したのでしょうか…?次の文書は、東寺のなかでおこなわれた会議の議事録「評定引付」です。
近年百姓が巷所を広げたため道が非常に狭くなった、巷所6、7尺(1.8~2.1m)ぶんを元通りの道路に戻してほしい、と西八条の寺(遍照心院)が訴えてきた、とあります。
この八条通はもともと幅24mの大路ですが、その半分以上が巷所にされてしまいました。そのうちの2mほどを、また道路に戻して通りやすくしてほしい、というのですから、遍照心院の言い分はけっして無茶なものではないように思えますが…。それに対して東寺の僧侶たちは、この巷所は東寺の領地なのだから、5寸(15cm)たりとも道路に戻したくない、などと話し合っています。とは言え、遍照心院の訴えはもっともなものなので、しぶしぶ受け入れることにしたようです。
でも…なんだかおかしな話ですね!そもそも道路は、人びとの行き来する公共の場であるはず…。それが、いったいいつのまに東寺の領地になってしまったのでしょうか?
平安京の道路の一部が耕され、田や畑にされるようになったのは、早くも平安時代の終わりごろだったようです。百姓たちは、勝手に道路を耕し、開発を進めました。そして、その耕地の所有を認めてもらうため、そこを東寺などの大寺院や貴族たちに寄進し、年貢も納めるようになったのです。こういった巷所には、田畑がつくられただけでなく、小さな店舗が集まって市がつくられたり、家が建てられたりもしました。
次の文書は、巷所の売券と、それに添えられた巷所の図面です。稲や麦、い草など、栽培されていたものや、こやしの量まで記されています。巷所はほかの私有地と同じように、売買されるまでになっていたのです!
公共の道路でずいぶん勝手な行動のようですが、余った土地を活用するかしこい行動でもありました。こうした行動もまた、平安京という都市の営みの一端をあらわしているのではないでしょうか。
この巷所、1か所1か所は決して広い土地ではありません。しかし、積もり積もれば、納められる年貢もそこそこの額になるはずです。東寺では、巷所からの年貢を管理する「巷所奉行」という役職まで設置され、予算にもしっかり計上されていました。巷所からの年貢は、お堂の修繕費などにあてられていたようです。そのため、巷所が広がっていくと公共の迷惑になることがわかってはいても、道路に戻すことをあっさり認めたくなかったのでしょう。
庶民の知恵と行動力、寺院や権力者の都合…いろんな思惑が重なりながら、京の都は発展していったのですね!きれいに整備されただけの都市ではない、どこか混沌とした歴史の痕跡。それが見え隠れするからこそ、京のまちは今も世界中の人びとを惹きつけてやまないのかもしれません。
中世の巷所、今はどんなふうになっているのでしょうか…?巷所の跡めぐり、ちょっとおもしろいかもしれません。
(松田:歴史資料課)