天正19(1591)年閏正月から4月ごろにかけて、豊臣秀吉は京都の町を堀と土塁で取り囲む惣構えを築きました。北は鷹峯の南側、東は鴨川の西岸、西は西ノ京の付近、南は九条通までを取り囲む全長約22.5キロメートルの壮大なもので、一般に御土居の名称で呼ばれています。南側については、東寺付近のみ九条通まで張り出し、油小路通以東は京都駅付近を限りとしています。東寺の南側は九条通を残して御土居で囲まれ、九条通を西へ進んだところが鳥羽口(東寺口)として西国街道や鳥羽街道に通じる御土居の出入り口の一つになっていました。
御土居の構造は堀と土塁からなります。北側の紫野付近では、堀幅約14メートル、土塁の幅は約22メートル、高さ約5メートルに達していました。このような大規模な工事なので、東寺の記録に残っていても不思議ではありませんが、東寺百合文書には天正19年の文書や引付は残っていないので、詳しいことはわかりません。
東寺百合文書の一部であった教王護国寺文書(京都大学所蔵)には、御土居の存在を窺わせる資料が1点あります(『教王護国寺文書』巻十、2970号文書 )。天正19年4月15日付け、大工の甚十郎による「東寺領南田指出之事」と題する検地の文書です。面積1反1畝18歩、高2石3斗2升の土地の内、7畝8歩、1石4斗5升2合分が、「土居堀に減る也」とされています。甚十郎の耕作する田地の実に6割の土地が土居堀(御土居)に取られたことになります。
東寺領南田は、百合文書に紀伊郡南田(を函254号)、紀伊郡角神田里(な函120号)などと出ていて、九条通より南側の紀伊郡に所在したことが分かります。紀伊郡の条里を復元した須磨千頴氏の研究によると、角神田里は東寺の南側に接する位置であったと推定されています。天正19年の南田の指出検地では、甚十郎の他にも但馬や随善、伊豆などの名前を持つ複数の住民からの文書が残りますが、御土居の工事に引っかかったのは甚十郎の土地だけでした。甚十郎にとっては不幸な出来事だったとしかいえませんが、御土居の記録を残した点では貴重な事件だったといえます。
(参考文献)
- 須磨千頴「山城国紀伊郡の条里について」(須磨千頴著『荘園の在地構造と経営』、吉川弘文館、2005年。初出は1956年)
- 中村武生『御土居堀ものがたり』、京都新聞出版センター、2005年
(大塚活美:資料課)