消えた一通の文書

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (11),「京都新聞」2016年9月24日付22面記事を転載

2万点3万通という膨大な「東寺百合文書」を整理・管理していますと、あまり公にはなりませんが、裏話もあります。百合文書の整理を始めて5、6年たった頃、1通の文書があるべき場所に見当たりませんでした。その箱を点検しましたが見つかりませんでした。

おそらくどこかに紛れ込んだのだろうと、全員が進めていた目録作業をストップして「い函」から百箱の文書を一点ずつ並べて点検することにしました。

当時、専任職員6人が2人1組3グループで整理を進めていましたが、百箱全部の点検に1週間ほどかかりました。最初はそのうちにどこかから出てくるに違いないという安心感から気楽に点検していました。しかし、3、4日とたつうちにどうも出てきそうにない。みんなの顔が真剣になってきました。館長に報告もできず、ただ黙々と点検を続けましたが、百箱調べてもついに見つかりませんでした。

みんなで「い函」からもう一度調べました。2回目になると、さすが焦りと疲れが感じられるようになりますが、みんなの目の色が変わって、さらに真剣に取り組みました。2、3日して他の箱に紛れ込んでいるのを発見した時にはその場に座り込んでしまいたい気持ちでした。

後から考えますと、どうも「犯人」は私だったようです。「A函」と「B函」の文書を照合した時に「A函」へ返すべき文書をうっかり「B函」に入れてしまったという単純なミスでした。それにしても2万点3万通のうちの1通の文書を探すのに、百合文書の目録作業が10日以上もストップしてしまったのです。巻物にしておけばこのようなことはありませんが、また別の面でいろいろな問題があることも事実です。

ともあれ、1通の文書を探すのにこれだけの努力を要するのです。実はこのようなことを防止するために、私たちはあらかじめ対策は講じていました。必ず2人1組で行動して常に確認することを早くからやっていましたが、これは、東寺の宝物管理から学んだことです。

百合文書の整理をはじめて間もない頃、東寺宝物館を担当しておられた現東寺長者の砂原秀遍大僧正から、東寺では宝蔵に入るには、万一の事故に備えて必ず複数で入ることを聞きました。さっそく資料館の古文書課では、収蔵庫に入るのも、整理作業も必ず2人1組でと徹底してきました。その言いだしっぺが気の緩みから大きな間違いをしてしまったのです。しかし、「慣れ」は恐ろしいもので、私の退職後も何点か見つからなくなって大騒動になったことがあると聞いています。もちろん紛失ではなく、所定の場所に見つからなかったということですが、百箱の2万点3万通の文書となりますと管理が大変なことなのです。これはいずれの文化財所有者にも起こりうることです。文化財の管理にはまた、それなりの苦労があることを裏話としてお伝えしておきたいと思います。

(上島有:京都府立総合資料館元古文書課長・摂南大学名誉教授)


東寺百合文書から 応永31年3月12日 足利義持御判御教書

ヒ函68号「足利義持御判御教書」応永31(1424)年3月12日

これまで足利氏の尊氏、直義、義満の花押を見てきましたが、義満の子・第4代義持の花押も紹介します。

写真の文書は東寺領山城国植松東庄(現在のJR西大路駅東側一帯)を最福寺との相論の結果、東寺領と認めると裁許した足利将軍家の最高の権威のある文書です。

義持の花押は、右に大きく張り出していて何とも異様です。義持は、早く応永元(1394)年12月、9歳で征夷大将軍となり、15歳となった応永7年12月には御判始の儀(花押の使い始めの儀式)をしています。しかし、その後も幕府の実権は父・義満が握っていて、どんな花押を使っていたのかも不明です。

義持は、応永15年5月の義満の没後から将軍として実権を握り、本格的に花押を使い始めます。別に掲載しているのは応永15年8月の義持のごく初期の花押で、いかにも生真面目な感じです。(新聞には花押の写真を掲載)。

 義持の花押は将軍として自信の高まりとともに年代を追うごとに右への張り出しが大きくなります。その最終形が文書にみられる花押で張り出しが5.3センチもあります。義満とは別の意味で、最高権力者たることを誇示したといえます。

この義持の花押は何を意味するのでしょうか。武家様花押や公家様花押、「慈」を象形化したなどといろいろな説がありました。しかし、筆順を検討すると、院号勝定院殿「勝」を象徴化したものに間違いありません。
その後、6代義教の公家様花押は普広院殿の「普」、8代義政は慈照院殿の「慈」、9代義尚は常徳院殿の「常」というように、院号の一字を義満の「鹿」のように象形化したのが、足利将軍家の公家様花押です。

(聞き手・仲屋聡:京都新聞記者)