最初の「晴れ姿」

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (9),「京都新聞」2016年7月23日付24面記事を転載

掲載している写真は私にとっては実に迫力のある写真ですが、多くの読者の方には何だかよく分からないのではないでしょうか。どうやら文書が雑然とぎっしり箱に詰まっているようです。

1967(昭和42)年当時の東寺百合文書収納状態

これが、「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された東寺百合文書を、1967(昭和42)年3月に京都府が受け入れた当初の姿であり、あえて「晴れ姿」といいます。

簡単に説明しますと、現状確認のために百合の蓋を開け、上から撮影した写真を集合合成したものです。

百合文書といいますと、94箱2万点3万通の文書であります。東寺でもなかなか細かい管理など行き届くはずはありません。箱に入れたままであったというのが実情です。私たちは、このように虫が喰ってひっついたままになっている文書を開けることから整理の仕事を始めました。少し整理すると、机の上には虫の死がいがごろごろと転がっていますし、虫のふんや埃で机がざらざらするような状態でした。埃アレルギーのアルバイトの大学院生が、マスクをしながら、ゴホンゴホンとやっていたのを思い出します。

整理を始めて半年くらいたってからでしたか、ある国立の博物館の古文書担当の方が見学に来られました。その時も私たちは一生懸命に虫の喰った文書と格闘していたのですが、それをみて「百合文書、百合文書というが、こんな雑文書だったのか」と感想をふともらされました。そういえば、多くの博物館などでは、中世文書といえば巻物や懸幅になったりして、立派な桐箱に収められているのが普通です。従って、整理を始めた頃の百合文書はおよそ中世文書らしくない文書で、まさに「雑文書」といわれても仕方がない状態だったのです。

この文書は、当時の京都府議会でも大きく問題になったこともあり、最初の頃はときどき議員の視察もありました。この虫喰い文書と格闘している私たちの作業を見たある府会議員は「府は『紙屑(かみくず)百箱』を買った」と言ったということも聞きましたが、初期の百合文書は「紙屑」といわれても致し方のないようなものでした。

もう一つ余談ですが、整理の途中で出てきた埃や虫のふん、死がいを私たちは大事にガラスのケースに入れてとっておき、第1回の東寺百合文書展を開いた時に展示しました。私たちの苦労を知ってほしかったというのが、展示した理由でしたが、考えてみますと虫のふんや死がいを一級の文書や美術品と一緒に堂々と展示したことは、まさに前代未聞だったと思います。ともあれ、このような状態から百合文書の整理が始まったのです。

しかし、これは百合文書にとって素晴らしいことだったのです。中世のありし日の姿のままで、ほとんど整理や選別の手が加わることなく、現在に伝わったことは、文書としてこれほど理想的な形はありません。私は、百合文書は「残った文書」で「残された文書」ではないといっています。中世が丸ごと残っていたのが百合文書であり、これほど理想的な文書はないと考えます。

(上島有:京都府立総合資料館元古文書課長・摂南大学名誉教授)


東寺百合文書から 鎮守八幡宮供僧評定引付に登場の「北山大塔」

ワ函19号「鎮守八幡宮供僧評定引付」応永10(1403)年閏10月18日

京都新聞の2016年7月9日付朝刊1面に大きく「金閣寺 幻の大塔あった」として、金閣寺(鹿苑寺、京都市北区)の発掘調査で、金銅製の相輪の破片が見つかったと報道していました。他の新聞社もほぼ同様の内容を大きく取り上げています。

金閣寺の北山大塔といえば、まさに「幻の大塔」でした。わずかに文献にみられる程度で、それを裏付ける物的証拠に欠けていて、基壇も見つかっていません。今回の相輪の破片が唯一の物証で、さらなる調査の進展が望まれますが、大きな第一歩であることは間違いありません。 

「幻の大塔」は、文献でも同様です。この大塔の立柱の儀(起工式)が応永11(1404)年4月3日に行われたことが「大乗院日記目録」や「興福寺年代記」などにみられますが、これらはいずれも編纂物、いわゆる二次史料です。文書・記録といった一次史料の確実な記載は、全くといってもよいくらいみられません。唯一みられるのは東寺百合文書の記事で、それと別のことに関して公家の日記に少し記載がある程度です。文献の上でも「幻の大塔」なのです。

 掲載した写真は「東寺鎮守八幡宮供僧評定引付」といって、東寺の鎮守八幡宮に奉仕する供僧(僧侶)の会議の議事録です。立柱の儀の約半年前ですが、応永10(1403)年閏10月14日、頼勝をはじめとする17人の僧侶が会議を開き、「塔普請」のための従事者を東寺領の山城国久世上下荘から徴集することを決めています。これが、おそらく北山大塔に関する確実な初見史料と思われます。 

さらに閏10月18日には、はっきり「北山殿御塔普請」と記され、鎮守八幡宮の供僧ほぼ30人をはじめ、多数の人数が動員されようとしていることがよくわかります。大々的な法会・祈禱が行われようとしたようです。実は、これは何らかの事情で中止され、翌年4月に立柱の儀として行われました。これも、百合文書の別の記録から確認できます。 

東寺から30人近くの僧侶が動員されたというと、これは東寺だけにとどまりません。広く近隣の大寺院から動員されて、大規模な起工式が行われたと考えられます。このように百合文書には、いくつか重要な記事がみられますが、文献的にも「幻の大塔」である北山大塔に関する貴重な史料だといえます。そして、その最も確実な史料が百合文書だということも特記すべきことだと思います。