新見荘を歩く その1―支配の拠点はどこ?―

先に東寺領の備中国新見荘で起こった武家代官の追放祐清殺害事件の一部始終を紹介していました。横暴を働く代官に憤りを覚えたり、たまかきの悲恋に心を打たれたりした方もいらっしゃるのではないでしょうか。備中国新見荘は現在の岡山県新見市にあった荘園で、今でもその名残をとどめています。今回から3話連続で新見荘の史跡をご紹介します。

新見荘の中央を流れる高梁(たかはし)川

寛正4(1463)年、祐清が殺害された頃、新見荘は「領家方」と「地頭方」の2つの地域に分かれていました。領家方は新見荘の西南部にあたり、東寺はこの地域を支配していました。一方、北東部は地頭方で、相国寺の季瓊真蘂(きけいしんずい)が開いた禅仏寺の支配地でした。

東寺も禅仏寺も京都にあるお寺ですので、離れたところにある荘園を支配するためには、現地に支配の拠点を設けなければなりません。この拠点を「政所(まんどころ)」といいます。地元の研究者の丹念な調査により、領家方・地頭方ともに政所の所在地が判明しています(下図)。

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それでは、まず領家方の政所跡から見ていきましょう。

1 領家方の政所があった付近

領家方の政所跡は地図の1です。新見荘の中央を北から南に流れる「高梁川」と南から北に流れる「為谷(ためたに)川」との合流点付近の小高い丘の上にあたります。ここに政所を置くことで、平地に広がる水田を見渡すことができました。さらに、交通の要所でもあり、ここから新見荘が属していた哲多(てつた)郡の役所である「郡家(ぐうけ)」につながっていました。つまり、地の利を活かしたところに領家方の政所は設けられていたのです。現在、この地には領家方の政所があったことを示す案内板と、「たまかき碑」が建てられています。

続いて、地頭方の政所跡を見てみましょう。

2 地頭方の政所があった付近

地頭方の政所跡は地図の2です。北から南に流れる「高梁川」と北西から南東に流れる「谷内川」との合流点付近には低湿地の水田が広がっています。地頭方の政所はその中の微高地にありました。

高梁川の河原に広がる低湿地を開拓するには、用・排水路を整備する必要がありました。平安時代末から鎌倉時代初頭にかけて、新見荘の百姓にはこの技術がなく、この地の開発は遅れていました。承久3(1221)年、承久の乱で勝利を収めた鎌倉幕府は新見荘に地頭を派遣します。関東から下ってきた地頭が排水技術をもたらし、開発は進んでいきました。地頭は低湿地の中でも微高地を選び、開発の拠点となる政所を設置したのです。現在、この地には地頭方の政所があったことを示す2つの石碑が建てられています。

地頭方の政所といえば、祐清が殺害されるきっかけとなった「下馬とがめ」の一件が頭をよぎります。先にも紹介していましたが、今一度この絵図を取り上げたいと思います。

サ函399号 備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図
サ函399号「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」
谷内家見取り図

「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」という文書名からも明らかなように、地頭方の百姓の一人である谷内の屋敷が描かれています。右側(北側)に主殿、左側(南側)に客殿が見えますが、実はこの客殿は地頭方の政所として使用されていました。この客殿の周りにのみ堀があり、この堀が終わるところまで祐清は下馬して通り過ぎようとしていたことが、絵図から読み取れます。この堀の遺構が現在も残っています。

堀跡(左側に見える一段低い水田)

今ではもう水田になってしまっていますが、写真の左側手前から奥の駐車場に続く細長い水田が堀跡です。祐清はこの堀の前では馬から降りたものの、それ以降は再び馬に乗ったため、家主の谷内から下馬とがめに遭い、殺害されてしまったのです。

ところで、つい最近まで、祐清の殺害現場は地頭方の政所(地図の2)付近ではなく、谷内集落(地図の3)周辺とする説が有力でした。その名の通り、谷内は谷内集落出身の百姓で、祐清が殺害されるきっかけとなった谷内の屋敷はこの谷内集落の中にあったと考えられていたからです。

しかし、近年、その説に再検討を促すような発見がありました。地頭方の政所付近の地名の調査を行ったところ、堀の北側にある一角が「谷内田(たにうちだ)」という地名であることがわかったのです。つまり、谷内は出身地の谷内集落だけではなく、この谷内田も支配し、屋敷を構えていた可能性が高くなりました。

谷内田(民家の前にある水田)

先ほど述べた通り、地頭方の政所は本来は谷内家の客殿でした。そして、堀を挟んで地頭方の政所の北隣に谷内家の主殿はありました。言い換えると、谷内家の主殿は谷内田に建てられていたのです。この事実を踏まえると、祐清が殺害されるきっかけとなった谷内の屋敷は、谷内集落(地図の3)ではなく、地頭方の政所(地図の2)および谷内家の主殿を指すといえるでしょう。

以上ここまで、支配の拠点である「政所」について取り上げてきました。次回は、経済や流通の中心地である「市庭(いちば)」をご紹介します。

(鍜治:資料課)