松雲公の偉大な功績

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (2),「京都新聞」2015年12月12日付28面記事を転載

東寺百合文書は、名が象徴するように我が国の古文書のうちでも特別な文書であります。文書の質や内容が特に優れていることは言うに及ばず、古くは奈良時代から江戸時代にいたる千年以上にわたる2万点3万通という大量の文書は、まさに壮観というべきでありましょう。これらの文書が現在に伝えられた最大の功績は、松雲公(加賀藩主前田綱紀)による「百合」の寄進というべきだと思います。

加賀藩主前田綱紀から寄進された桐箱

いずれの寺社や公家、武家の家柄においても文書類をはじめとする寺宝、社宝、家宝の類いは大切に伝えられるべきものです。その中でも東寺は寺宝尊重の意識が特に高い寺院です。だからこそ、古代以来の膨大な文書が残ったのです。

しかし、豊臣秀吉の太閤検地を経て荘園制が崩壊、新たな江戸時代の知行制が確立すると、これらの文書は証拠書類としての価値は失われ、ほとんどが反古になってしまいます。従ってこの段階で廃棄された文書は多数にのぼります。ときどき、古い寺院の襖や屏風の下張りなどから、中世文書が出てきたという話を聞きますが、それはこの時に破棄されたものです。

幸い、東寺では中世以来の文書を破棄することなく、主として東寺内の西院のあちらこちらに中世の姿のままで保存されていました。このことを聞いた松雲公が「百合」を寄進することになります。これは、百合文書にとって本当に幸運なことでした。

もし、これらの文書が中世から伝わったまま、東寺の西院に分散して置かれていたら、その後の長い江戸時代を通じて、いつしか散逸してしまったでしょう。いかほど、寺宝保存の意識の徹底した東寺といえども完全な形ではなく、その何分の一程度にすぎなくなってしまっていたのではないかと考えられます。松雲公の寄進によって、これらの文書が「百合」として一括され、堅牢な桐の保存箱に納められた意義はたいへん大きいと思います。

百箱の文書は広い東寺の山内でも、それをまとめて保管する場所は簡単には見つかりません。これらの文書は、本来は西院のどこかで保管されるべきですが、適当な場所はありません。そこで広い宝蔵に納められることになりますが、何しろ東寺最高の秘庫です。これほど安全で厳重な保管場所はありません。百合文書にとっては、これもたいへん幸運なことでした。

その後、一部、整理と調査がなされ、また散逸もみられますが、全体としてはほとんど文書に手がつけられることなく、中世のありし日の姿のままで300年の「太平の夢」をむさぼって最近に至っております。特に明治初年の廃仏毀釈に際しては、京都や奈良などの有名な寺院の文書などの寺宝が多数散逸しますが、百合文書全体はまったくその影響を受けず、ほぼ完全な形で伝えられました。

これは東寺の完璧な寺宝保存体制によるものであることはいうまでもありませんが、とくに松雲公の「百合」の寄進に負うところが大きいというべきです。私は、よく百合文書は生まれながらにして「古文書の『王者』たることを運命づけられた文書」だと言っていますが、これら数々の幸運に恵まれて、今日に伝えられたのが百合文書なのだと痛感するのです。

(上島有:京都府立総合資料館元古文書課長・摂南大学名誉教授)


東寺百合文書から 後宇多上皇院宣「あえて2枚に 品格の書」

せ函南朝文書5号「後宇多上皇院宣」文保2(1318)年9月12日

この文書は後宇多法皇が文保2(1318)年9月12日に東寺の境内の清掃のために掃除を専門とする「散所法師(さんじょほうし)」を15人行かせたことを伝えています。書き手は法皇に仕えた万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)です。

文書を見るとほれぼれするぐらい素晴らしい。墨継ぎが古来の法則通りで合っている。院宣は公文書ですから普通は1枚で収めてしまうのですが、わざわざ2枚にしていて書の法則を意識して書いているのです。

初めて東寺百合文書の展覧会を開いた際にこの文書を出しました。その時に訪れた書家の綾村坦園(あやむらたんえん)さん(故人)が「これは素晴らしい」と驚き、いろいろと教えていただいて目を開かされました。

私は書はあまり分かりませんでしたが、素晴らしいと感じました。品格があり、百合文書を代表する字といえます。この文書を見る時には余白も見てほしい。じっくり余裕を取って書いている。それが一つの書法であり、「余白の美」です。それを見られるのもアーカイブのおかげです。

後宇多さんは、東寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、修行して大阿闍梨(だいあじゃり)となりました。東寺を保護する思いが強く、上桂など重要な荘園を4カ所も寄進しています。この文書のエピソードの続きとして面白いのは、宣房のひ孫にあたる万里小路嗣房(までのこうじつぐふさ)が足利義満に仕えて、後に宣房と同じような内容の文書を書いています。字のうまさは宣房よりかなり落ちますけどね。

(聞き手・仲屋聡:京都新聞記者)