「誘拐田」?―地名の不思議―

中世文書には、さまざまな地名が出てきます。それが今日まで続く地名であれば、古文書に書かれた土地が具体的に分かり、古文書を読む楽しみもいっそう深まるでしょう。

そもそも地名は、どのように生まれるものでしょうか。その土地の自然環境や歴史的背景から名付けられることが多いと考えられますが、その経緯まで分かる事例はあまりありません。普段何気なく使われている地名も、生成の時期や事情はさまざまであり、それぞれに歴史があります。歴史史料を読み解く上でも、地名などの地理情報が手がかりになるケースが少なくありません。地名は決して一定不変のものではなく、何らかの事情によって変更されることもあれば、時間の経過とともに使われなくなることもあります。またそれゆえに、歴史情報としても貴重なものなのです。

今回は、ちょっと変わった地名と、その地名が生まれた経緯を紹介しましょう。

メ函340号 大袋田文書目録
メ函340号「大袋田文書目録」

大袋田文書目録
  三段半〈五坪一段半、南田二段〉
一通 定超法印寄進状〈観応元《庚寅》十 廿一〉
一通 忠救僧都寄進状〈同年同月日〉
一通 御室御教書〈観応元 十二 六、宝持院教雅僧都奉書《于時東寺奉行》〉
一通 所当米目録
二通 百姓等請文
   已上

この文書目録は、東寺の西院御影堂に寄進された「大袋田」(おおぶくろだ)に関する6通の文書を列記した小さなものですが、書き上げられた文書は全て現存しています。この「大袋田」以外にも、中世の東寺は寺辺に散在する土地を積極的に集積していきましたが、その際に作成された文書が非常によく残っているのが「東寺百合文書」の特徴の一つです。以下、目録に記された「大袋田」関係文書を順に見ていきましょう。

カ函43号 法印権大僧都定超田地寄進状
カ函43号「法印権大僧都定超田地寄進状」観応元(1350)年10月21日
イ函41号 権少僧都忠救水田名主職寄進状
イ函41号「権少僧都忠救水田名主職寄進状」観応元(1350)年10月21日

この2通の文書は、観応元(1350)年10月、「大袋」の罪を犯した清九郎という人物から没収した3段半の田地を、凡僧別当の定超と執行の忠救が半々ずつ、東寺の西院御影堂に寄進した際に作成されたものです。

では「大袋の罪科」とは、いったいどのようなものなのでしょうか?

「大袋」は、中世の盗犯の一種で、鎌倉時代の法律書である『沙汰未練書』(さたみれんじょ)には謀叛・夜討・強盗などとともに挙げられている罪名ですが、具体的にどういった犯罪なのかは分かっていませんでした。しかし近年の研究で、誘拐・人攫(さら)いの犯罪であるとの見解が出されています。

つまり、冒頭の文書目録に書かれていた「大袋田」とは、「誘拐田」「人攫(さら)い田」といった意味になります。地名としては甚だ物騒な、相当に変わったものですね。

さて、寺領が寄進された際、東寺はその寄進をいっそう確実なものとするため、仁和寺御室や、更に御室を介して朝廷に、「安堵」(あんど、保証・承認すること)を求めることがありました。次に掲げた文書は、仁和寺御室から「大袋田」について安堵を受けた際のものです。

り函47号 仁和寺御室法仁法親王令旨
り函47号「仁和寺御室法仁法親王令旨」観応元(1350)年12月6日

定超法印ならびに忠救僧都が私領の田地(「大袋田」のこと)を東寺の御影堂に寄附するとの由を、仁和寺御室法仁法親王が聞こし召されたので、永代に東寺領として間違いなく知行するように、との旨を東寺供僧中に伝える内容です。

り函47号 仁和寺御室法仁法親王令旨 追而書
り函47号「仁和寺御室法仁法親王令旨」の追而書(おってがき)

第2紙目に書かれた追伸部分には、「寄進状両通」を御室宮のお目にかけてすぐに返却する旨が書かれていますが、この「寄進状両通」とは、さきに掲げた凡僧別当定超と執行忠救の寄進状(カ函43号・イ函41号)をさします。

セ函90号 寄進田〈大袋田〉三段半名主職所当米等注文
セ函90号「寄進田〈大袋田〉三段半名主職所当米等注文」

東寺の御影堂に寄進された土地は、東寺が管理していくことになります。この文書は、このたび寄進された「大袋田」3段半の土地について、賦課された所当米の数量などを細かく注記したものです。「下作職末貞」のように、下作職(実質的耕作権)を保持している人物が実際の耕作者です。

3段半の土地は3ヶ所に分かれており、それぞれ1段、半(180歩)、2段の広さだったこと、南田の2段はさらに1段ずつに分かれていたことなどが分かります。

レ函56号 真勝大袋田所当米請文
レ函56号「真勝大袋田所当米請文」文和2(1353)年12月19日
メ函133号 円良大袋田所当米請文
メ函133号「円良大袋田所当米請文」文和2(1353)年12月晦日

この2通の文書は、文和2(1353)年12月、御影堂に寄進された大袋田の所当米の納入を、真勝と円良の2人が請け負った請文です。「壱段所当米」「壱石伍(五)斗分」という文言から、さきの所当注文(セ函90号)に書き上げられた寄進田名主職所当米のうち、最後の「南田二段」に対応するものと分かります。

所当米の納入を請け負っている真勝と円良は寺官という東寺の下級僧で、実際の耕作には所当注文に「下作職」保持者として書かれていた左近五郎と平四郎があたりました。

ここで注目したいのは、両通の冒頭に「御影堂領寄進田〈大袋田と号す〉」「御影堂御領大袋田」とあるように、寄進された田地が「大袋田」と称されている点です。また、端裏書(はしうらがき、料紙の右端の裏に書かれた字句)にも「大袋田」という言葉が見えます。この端裏書は、文書を受け取った東寺供僧が整理や備忘のために書き付けたもので、「大袋田」の呼称が寺内において普通に用いられていることが分かります。これは、「大袋」の罪科によって没収され、東寺西院御影堂に寄進されたという由来をもつ田地が、「大袋」という罪名に因み、寺内において「大袋田」と呼ばれるに至ったということで、「大袋田」という地名が生まれたことを示しています。

はじめに説明しましたように、この「大袋田」は、いわば「誘拐田」「人攫(さら)い田」ともいうべき呼称で、現代の私たちの感覚からするととても奇異に感じられます。ところが『日本歴史地名大系』を繙いてみると、この「大袋」地名は全国に点在していることが確認されます。個々の事例について、地名生成の経緯は様々でしょうから、それらがすべて「大袋」の罪科に由来するとはいえません。しかし、中には今回紹介したような例も含まれているはずです。

今回お話しした事例は、普段何気なく用いられている地名にも、その背景には意外な歴史的事実が隠れているかもしれないことを語る好例でしょう。

(宮﨑 肇:東京大学史料編纂所特任研究員/早稲田大学非常勤講師)