矢野荘を歩く その2―現地支配の拠点を探せ―

同じ近畿地方にあるといっても、東寺のある京都と、矢野荘のある兵庫県相生(あいおい)市は離れています。都に居ながら地方の荘園を支配するためには、現地に事務・運営の拠点を設ける必要がありました。その施設を政所(まんどころ)といいます。東寺からすると、政所は荘園支配の心臓部だったわけです。では、その政所はどこにあったのでしょうか。

現在の矢野川と小河(おうご)川との合流点の西南に、「政所」と書いて「マエジョ」と読む地域があります。東寺の前に、矢野荘例名(れいみょう)を支配していた藤原氏は、ここに「中ハサミ政所」を置きました。

「中ハサミ」…いったい何のことでしょうか。一説によると、小河川の河道が今とは違い、矢野川と小河川に挟まれるようにして政所は建っていたのではないかといわれています。まさしく「中挟み」ですね。

その「中ハサミ政所」も、例名が東西に二分されるにあたり、東方の地頭のものとなってしまいました。これを受けて、西方の藤原氏は新たに政所を設置する必要に迫られました。下に見えるのは、東方の範囲が示された文書です。文書のいたるところに「中ハサミ」の文字が見えます。

み函8号-1 播磨国矢野荘例名東方地頭分下地中分々帳案
み函8号-1「播磨国矢野荘例名東方地頭分下地中分々帳案」正安元(1299)年12月14日

では、藤原氏はどこに新たな政所を置いたのでしょうか。…残念ながらその特定には至っていません。藤原氏にかわって例名西方を支配することになった東寺が、藤原氏の置いた政所をそのまま引き継いだのか、それとも新たに設置し直したのかもわかっていません。ただ、東西に二分されてから約50年後のことですが、東寺は「土井ノ内」に政所を置いていたようです。次の文書の右から5行目下段に「土井ノ内」「政所屋敷」の文字が見えます。

ト函40号 播磨国矢野荘西方畠実検名寄取帳
ト函40号「播磨国矢野荘西方畠実検名寄取帳」貞和2(1346)年4月10日

この「土井ノ内」がどこにあたるのかについては諸説分かれています。ひとつは、「大避(おおさけ)神社」の周辺とする説です。「大避神社」は矢野荘全体を守護する荘鎮守として人々の信仰を集めていました。もうひとつは、奥野山にある「須賀神社」の付近とする説です。「須賀神社」のそばには田畠の管理を担っていた田所(たどころ)の本位田(ほんいでん)氏の住宅があり、一時期その住宅を政所屋敷にしていました。いずれも甲乙つけがたいですが、政所があちこちを転々とした可能性もあるので、どちらにも一度は政所が置かれていたということもありえるかもしれませんね。

※中ハサミ政所跡・大避神社・須賀神社の所在地についてはこちら(Googleマップ)。

(鍜治:歴史資料課)