東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)は、京都の東寺に伝えられた日本中世の古文書で、現在は京都府立京都学・歴彩館(旧京都府立総合資料館)が所蔵しています。8世紀から18世紀までの約1千年間にわたる膨大な量の古文書群で、その数はおよそ2万5千通に及びます。中でも、もっとも充実しているのが、14世紀から16世紀あたりの文書です。
名前の由来は、江戸時代に遡ります。加賀藩の第5代藩主だった前田綱紀が百個の桐箱を文書の保存容器として東寺に寄附し、その後はこの箱に納められて伝えられてきたことから、「東寺百合文書」と呼ばれるようになりました。
東寺百合文書は、1967年(昭和42年)に京都府が東寺から購入し、現在は、京都府立京都学・歴彩館(旧京都府立総合資料館)の収蔵庫で保管されています。史料的価値がとても高いということで、1997年(平成9年)には国宝に指定されました。
東寺
東寺百合文書を伝えてきた東寺は、正式名称を「教王護国寺」といい、796年(延暦15年)に創建されました。都が京都に移されたのは794年(延暦13年)ですから、その直後のことでした。
東寺は、鎮護国家を目的とした寺で、都の正門ともいえる「羅城門」の東側に建てられました。羅城門をはさんで西側には「西寺」も建てられましたが、こちらのほうは、10世紀末頃には大部分の伽藍が焼失するなど早くに衰退してしまったため現存しません。一方、東寺は、その後真言宗の拠点となり、今日に至っています。
真言宗の開祖である空海は、823年(弘仁14年)に嵯峨天皇から東寺を賜りました。彼はそれ以前に中国大陸へ渡り、唐の国で仏教について多くを学んでいました。空海は、東寺を真言宗の根本道場として運営し、真言宗の僧のみをおきました。同時に、その頃まだ建設の途上であった伽藍の整備にも積極的に取り組みました。空海は、後世になっても「弘法大師」として尊ばれ、鎌倉時代(13世紀)以降には広く庶民信仰の対象となっています。
文書が今に伝わった理由
和紙や墨は保存性に優れていて長く残りうるものですが、文書が時代を超えて伝わるには、そういった「物」としての性質だけではなく、人がどのように文書を取り扱うかということも重要になってきます。
文書が現実に利用されていた中世(文書がまだ生きていた時)には、東寺の僧侶によって厳密に管理され、寺僧組織の責任者の手許、西院御影堂の文庫や宝蔵に保管されていました。寺僧組織の責任者の手許に置かれていた文書は、日々の事務や会議の運営のために必要なものだったのです。たとえば、権利を証明するような重要文書の写しや、会議の議事録である評定引付などがそうで、「手文箱」と呼ばれる文書箱に入れられて保管されていました。
西院御影堂の文庫には、奉行が写しを作成して手文箱で保管していたような重要な文書の正文(オリジナル)が納められていました。文庫では、寺僧組織ごとにいくつかの文書箱が設けられ、納められた文書についての、整理分類されて目録も作成されていました。
江戸時代に入ると、それまでの「荘園制」に代わって近世的な土地制度が導入されました。社会の状況が変化すると、それ以前の文書を使って権利・特権を主張しても、もはや通らなくなってしまいます。つまり、文書が実際の役にたたなくなり、使われることもなくなっていった訳です。そうなると、これらの文書は本来の用途とは別の目的で利用されるようになります。江戸幕府をはじめ諸大名は学問を奨励し、歴史書や地誌の編纂を行います。加賀藩の第五代藩主前田綱紀も、学問に強い関心を示し、日本各地に家臣を派遣して書物を求めましたが、東寺からも文書を借り出すなどして目録の作成や文書の書写を行いました。
1685年(貞享2年)、綱紀は、文書の整理を終えるとともに膨大な数の文書を保存するための桐箱を百個、東寺に寄進しました。古文書となっていた文書群は、この桐箱に納められて今に伝わることになります。
現在の東寺百合文書
和紙に筆と墨で書かれている日本の古文書は、長期間の保存に耐えるものですが、長年のあいだには破損したり虫に害されたりもします。東寺百合文書の場合も、損傷の激しい文書は補修を行っています。およそ半数について、保存や利用を考慮しながら補修を施していますが、あくまでも原形保存を原則とし、詳細な補修記録も残しています。
残る半数の文書については、中世に書かれた時の状態に手を加えることなく、当時の姿で残されています。そのため、文書に書かれている内容だけでなく、文書自体を「物」として研究することからも、さまざまなことが分かります。東寺百合文書は、たとえば、中世の紙について研究する上でも貴重な素材なのです。