500年前の文書も…中世東寺の文書管理

コ函14号 宝蔵破損文書等所出日記
コ函14号「宝蔵破損文書等所出日記」応永9(1402)年7月14日

上の文書は、室町時代の中ごろ、応永9(1402)年に修理する文書を宝蔵から取り出したときの記録です。6通と1結の文書が取り出されていて、そのなかには「聖宝別当補任官符」が含まれていました。聖宝(しょうぼう。醍醐寺を開いた僧です)が東寺の凡僧別当に補任されたのは延喜2(902)年のことですので、室町時代に500年も前の文書がきちんと残されていたことがわかります。さらに、将来のためそれを修理しようともしていたのです。

東寺では、鎌倉時代の終わりごろから廿一口供僧方(にじゅういっくくそうかた)や鎮守八幡宮方(ちんじゅはちまんぐうかた)など「~方」というような名前の僧侶のグループができます。それぞれは半ば独立した組織として運営されていて、組織ごとに、仏事などの費用をまかなうための荘園に関する文書や、評定引付(ひょうじょうひきつけ、会議の記録)など組織の運営・経営に関する多くの文書が作られ、やりとりされていました。

そのような文書の多くは弘法大師空海ゆかりの西院御影堂(みえどう)にある文庫に納められていました。置かれている文書箱の数は時期によって変動しますが、次のようにたくさんあったことが分かります。

  • 正文上皮子
  • 正文下皮子
  • 廿一口方皮子
  • 廿一口方第一箱
  • 廿一口方第二箱
  • 廿一口方第三箱
  • 廿一口方第四箱
  • 十八口方皮子
  • 大山箱
  • 上桂箱
  • 太良庄第一皮子
  • 太良庄第一箱
  • 太良庄第二箱
  • 学衆方第一箱
  • 学衆方第二箱
  • 久世方箱
  • 寄進田上箱
  • 寄進田中箱
  • 寄進田下箱
  • 請文箱
  • 造営方箱
  • 掃除方箱
  • シブハリ箱

(「西院文書出納帳」(天地之部19号・京函86・リ函94号・ナ函30号・あ函43号・あ函55号・さ函111号・さ函113号・さ函126号)から復元。15~16世紀の様子を示しています。)

ム函63号 学衆方第一箱重書目録
ム函63号「学衆方第一箱重書目録」文安4(1447)年9月6日

上の文書は、表中にも見える「学衆方第一箱」の内容を書き上げた目録です。計27項目のうち初めの14項目は「殊重宝分」として葛(つづら)に入れられていたようです。また最初の「後宇多院四ヶ庄御寄進御起請符」1巻は、それだけでさらに別の箱の中に納められていました。ここに書き上げられている文書はいずれも土地の権利を示す大切な文書で、一行目では「重書」(じゅうしょ)と表現されています。

メ函243号 学衆方第二箱所納重書目録
メ函243号「学衆方第二箱所納重書目録」文安4(1447)年9月6日

こちらは「第二箱」の目録です。項目の中には、「学衆文書古目録 一巻」というのがあり、学衆方では昔にも文書を整理して目録をきちんとつくっていたということが分かります。

各組織には事務運営上のリーダーである奉行(年行事、年預ともいいます)がいて、組織で出す文書に署名をしたり、案文(控え)を作成したり、評定引付を書いたり、他から受け取った書類をリストアップしたり、文書の管理を一手に引き受けていました。奉行は、重要書類の控えなどを手文箱(てふみばこ)に入れて手元に置いておき、1年の任期が終わって次の奉行と交代する時になると箱ごと引き継ぎます。下の文書は、廿一口方の奉行が交代する時に作られた引き継ぎ文書で、送進状といいます。手文箱と一緒に蔵の鍵や鎖、御影堂への通路である四足門や西門の鍵も受け渡されていました。文庫や門の出入りは、それぞれ三聖人(さんしょうにん)や門指(かどさし)といった別の人たちが管理していましたが、鍵は奉行が持っていました。奉行の文書の管理人としての責任の大きさがわかるのではないでしょうか。日付は「十二月廿九日」とあり、廿一口方では年末に引継ぎが行われ、新年とともに奉行が交代していました。

ア函200号 廿一口方手文箱送進状
ア函200号「廿一口方手文箱送進状」文安2(1445)年12月29日
レ函219号 廿一口方手文箱送進状
レ函219号「廿一口方手文箱送進状」明応3(1494)年12月29日

ア函200号から、およそ50年後の送進状です。この間に廿一口方の手文箱の数は9から14に増加していることがわかります。